“最後の映画俳優”松方弘樹がラストインタビューで憤ったことと、そこから見えた役者魂

コラム

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故・松方弘樹さん
故・松方弘樹さん/(c)Avalon

伊藤彰彦/Avanti Press

松方弘樹は「遅れてきた最後の映画俳優」だった。1960年に映画界に入るやテレビやレジャー産業の影響で映画は斜陽になり、時代劇の主役に抜擢されたとたんに時代劇は終わり、やくざ映画で若頭から親分役になった時にはやくざ映画に客は来なかった。このことはのちの大作時代劇やVシネマでも繰り返され、松方は図らずもそれぞれの路線の「最後の主演俳優」になってしまう。そして芝居が上手過ぎ、主役も傍役も器用に演じられたため会社には便利に使われた。そうした悲運の映画人生を、持ち前の陽気さと芸への一念で乗り切ってきたのが松方弘樹という役者だった。

松方がブレイクしたのは70年代の実録やくざ映画時代である。『脱獄広島殺人囚』(1974年)、『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976年)、『北陸代理戦争』(1977年)で松方演ずる主人公は死んでも当然の状況におかれながらも、とにかく死なないのだ。涼しい顔で窮地を脱し、女たちのもとに現われ、不敵な笑みを浮かべ、キツーイ一発をお見舞いするのだ。そんな松方弘樹に10代の私はぞっこん惚れこんだ。

縦横無尽に語った3日間、20時間にも及ぶインタビュー

松方にインタビューする機会が訪れたのは、2015年10月のことだった。松方の芸談をまとめ、「無冠の男 松方弘樹伝」というタイトルの本にしたいという私の提案に講談社の編集者が乗り、松方の事務所に連絡を取ったのだ。

都心のホテルの会議室で緊張して待っていると、ジーンズ、ピンクのセーターにパープルのストールを巻いた松方弘樹がマネージャーとともに入ってきた。私は、「松方さんの初めてのインタビュー本を作りたいんです」と単刀直入に口火を切ってみたが、松方は唇にリップクリームを塗ると、昨日築地市場へ行ってマグロの品定めをした話をし始めた。それが30分続いたあたりだろうか、私は松方の父で剣戟の達人、近衛十四郎の刀の抜き方について訊ねた。松方は突如立ち上がるや、身振り手振りを交え、近衛のみならず中村錦之助(萬屋錦之介)や大川橋蔵の立ち廻りを演って見せた。それは2時間、止まることがなかった。

こうして始まったインタビューは3日間、20時間に及んだ。その中で松方は、立ち廻り、撮影台本の読み方、メイクの工夫からやくざの親分との付き合い方までを縦横無尽に語った。インタビューでつねに言葉使いが丁寧だった松方が、一度だけ語気を荒げたことがある。松方は、石原裕次郎や高倉健の陰になって、鶴田浩二の評価が不当に低いことを憤り、鶴田を哀惜するようにこう言った。「あんなにお芝居が上手い人はいなかったもの……もう、ああいう俳優はいないよね」。

20時間のインタビューが終わると、「打ち上げ行こうか」と松方は私を六本木のステーキハウスに誘った。5キロのサーロインステーキを註文したので、そんなに食べられないなと思っていると、松方が立ちどころに2キロを平らげた。別れ際、「本が出来たら、また打ち上げだ」と笑って松方は言ったが、その約束が果たされることはなかった。

意識を失うまで、役者であり続けようとした

年が明けた2016年2月、松方弘樹は脳リンパ腫と診断され、治療のために長期入院した。入院中も松方は本のゲラに目を通し、加筆・修正したい箇所を口述し、それをパートナーの山本万里子が綺麗な字で書き留め、編集部に送った。私は本の出版と松方の復帰が重なる日を待ち侘びたが、2017年1月21日、その夢は砕かれた。

松方弘樹は死の直前まで、「車椅子に乗ったままでも、どんな姿でもいいから芝居がやりたいなあ……」と周囲に漏らしていたという。「俳優に戻りたい」でも「役者をやりたい」でもなく、「芝居がやりたい」と言ったところがいかにも松方らしい。松方は意識を失うまで、役者であり続けようとしたのだ。鶴田浩二について彼が語った言葉をそのまま松方の霊前に手向けたい。

「あんなにお芝居が上手い人はいなかった……もう、あんな役者はいない」。

記事制作 : Avanti Press(外部サイト)

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