文=松本典子/Avanti Press

幼かった頃は「大きくなったらパパのお嫁さんになる♡」なんてはしゃいでいたのに、やがて洗濯物を一緒に洗われるのも嫌になって口もきかず……。というのは極端な例としても、いつの間にかお父上と疎遠になってしまったという娘さん、世にたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。母の日のギフトは毎年ちゃんと思い悩むのに、父の日? あ、もう7月だ……なんて。はい、かくいう私もどちらかと言えばその類です。

そんな世の娘たちは、「そうそう。父親ってこういうところがあるから、距離を置きたくなるんだよね」、あるいは「うちのパパ、ここまでじゃないけれど何となくわかる」という心持ちで映画『ありがとう、トニ・エルドマン』を観ることになるでしょう。そして、観終わった頃には……昨年までとは違う父の日を迎える気持ちになっているかも? ヨーロッパでは異例の大ヒット、かのジャック・ニコルソンが惚れ込んで引退を撤回、ハリウッドリメイクも決定した話題作です。

ヒッピー風情な父に、キャリア志向の娘
距離はあっても嫌いではなかったのに

父ヴィンフリート(左)は、前触れもなくイネス(右)の勤務先を訪れる

父ヴィンフリート(左)は、前触れもなくイネス(右)の勤務先を訪れる

ヴィンフリートは半ばリタイアしたドイツの音楽教師で、かなり昔に円満離婚を経験した後はゆるい毎日を過ごしている様子。趣味は、困ったことに……悪ふざけ! 冒頭から、「あ、ちょっと面倒くさい人かもね」という臭いをプンプンさせます。一方、その娘イネスはコンサルティング会社の辣腕社員で、携帯電話をかたときも離せない真面目なキャリア志向。この父ヴィンフリートが、娘の赴任先ルーマニアのブカレストへ。前触れもなく、しかも彼女の勤務先にヨレヨレのエコバッグを提げてやって来るのです。

数日で音を上げた娘に追い出されるように、帰国の途へつく父。追い出したものの、見送りながらふと涙を流す娘。ところが、話はここからでした。「先週最大の悲劇は、父が突然来ちゃったことよ」なんて友人たちに愚痴っているレストランに、父は待ち伏せていたのです! しかも、カツラと入れ歯で妙ちくりんな変装をした架空のキャラクター、トニ・エルドマンに扮して。友人たちへはもちろんのこと、イネスにまでも「はじめまして」とあいさつをしてくる始末(苦笑&失笑)。

オヤジギャグなんてまだかわいい、失笑と冷笑? けれど、
トニ・エルドマンの変装&悪ふざけが招くのは……愛なのだ!

カツラと入れ歯で架空のキャラクター、トニ・エルドマンに扮した父ヴィンフリート
(c) Komplizen Film

趣味が悪ふざけ、な彼ですから、デタラメなプロフィールやエピソードをしゃあしゃあと語ります。突拍子もない振る舞いで飄々と、セレブリティと知り合いだとか、コーチングやコンサルで成功しているとか、果てはドイツ大使だとうそぶくまでに。にも関わらず、なぜか「オレ様が」的な押しの強さとは無縁。むしろ次に何をしてくれるのか? と見守りたくなる。主演俳優ペーター・ジモニシェックの力量が大きいところです。

もうひとつ。トニ・エルドマンが活躍(?)するほどに、イネスの表情は呆れや怒り、焦りなどでガンガン固まっていくのですが、当事者がシリアスであるほどに傍観者には微笑ましく、可笑しくてしかたない。このコメディ要素も、本作の大きな魅力となっています。やんわりとではあるけれど拒絶されてしまった父ヴィンフリートは、何か大切なものを見失っているように思える娘イネスに何とかしてもう少し接したい。きっと必死で思いついたのではないでしょうか。トニ・エルドマンとしてならば、心配な娘のそばにもう少しいられるぞ、と。カツラと入れ歯で装う彼にはイネス同様ハラハラとさせられますが、その言動や行動に見え隠れする娘への思いにブレがないことに気づくころから、我々は安心してお腹を抱えて笑えるようになるのです。

ええいっ、どうにでもなれ!がきっかけで
イネスの頭に浮かんだ驚愕のアイデア

田舎の貧しい農家とのつかの間の交流や、伝統的なイースターエッグ作りの場に(社交辞令とはいえ)招いてくれた家庭への訪問など、屈託なく地元の人たちに接するトニ・エルドマンことヴィンフリート。イネスは父の行動に巻き込まれて彼/彼女らと触れ合います。ビジネスパーソンとしての彼女ならば、ほぼ知ることのないルーマニアのローカルな、素顔の世界です。マーレン・アデ監督は、グローバル経済の尺度では測りきれない豊かさの風景を垣間見せることで物語に厚みと温かみを添えているのかも。その厚みと温かみは、ヴィンフリートの人となりとも共鳴しています。

訪問した家庭で、トニ・エルドマンは「お招きのお礼に、我々から歌を。彼女が歌います」とピアノを弾きだします(本当は音楽教師ですから、お得意)。選曲は、独断でホイットニー・ヒューストンの「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」。引くに引けず、自棄っぱち気分で歌い始めるイネスですが、これがもう気持ちと歌詞がどんどんリンクして行く。笑いながら泣けちゃうような、心に残るシーンです。思い出すと私もつい口ずさみたくなる……。

けれどね。クライマックスは何と、この後なのですよ。ホイットニー熱唱をあっさり凌駕してしまう、イネスの誕生パーティ。彼女が突発的に思いついたのは「あの父にしてこの娘あり」としか言いようがない宴の趣向なのですが、これがもう! 単なる思いつきの域は軽く超え、彼女自身や周囲の人々の本心を図らずも炙り出す絶好のリトマス試験紙になっていて。もちろん彼女も心の色をあらわにします。コメディ、(ちょっとしたハラハラという意味では)サスペンス、そしてヒューマンドラマという多重構造で魅せる本作の真骨頂に、お腹をよじりながらホロリ。メイン料理を堪能して、まだ食べる? とか思いながら出されたデザートを口にしたら……ナニこれ最高! そんな満足感といえましょう。

そして迎える父の日、今年は6月18日です。我が身を父はどんな風に思っているか、娘としてどう受けとめればよいのか。本作を観てしまった後ではちょっと考えが変わる……かもしれません。だとしたら、トニ・エルドマンにお礼を。