文=松本洋一/Avanti Press

「エウレカセブン」シリーズ最新作となる劇場版『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』。本作はテレビシリーズ『交響詩篇エウレカセブン』の映像を再解釈、再構築し、新規作画を織り交ぜながら紡がれる新たな物語だという。ここで注意したいのは、単なる再編集ではないという点だ。“新たな”作品なのである。テレビシリーズとの違いとは何か。再構築のポイントに注目して探りたい。

テレビアニメ「交響詩篇エウレカセブン」(2005年)は、主人公レントンの成長物語としての一貫性、芝居とアクション両面における卓越した作画など充実した内容で人気を博したSFロボットアニメで、2000年代を代表する作品として多くの人の記憶に残り続けている。その後、2009年には劇場版『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』が公開。続く2012年にはテレビアニメ「エウレカセブンAO」が放送されるなど、シリーズは制作され続けている。

説明テロップが浮き彫りにする客観化した世界

10年前、世界を危機に陥れた現象「サマー・オブ・ラブ」で父を失ったレントンは、育ての親レイとチャールズのもと地方都市ベルフォレストで鬱屈とした日々を過ごしていた。そんな彼に転機が訪れ家を飛び出すことに。旅路で出会った人々との出会いと別れ、発掘人型機動兵器・ニルバーシュへの搭乗を経て、レントンは世界の理を知り、成長していく。そしてレントンの心に中にはいつも、彼を外の世界へと誘った少女エウレカの姿があった。

『~ハイエボリューション1』は、ストーリーの主軸こそある程度テレビシリーズに合わせているようだが、設定や作品が内包するテーマが若干ずらされ、何より見せ方が違っている。なぜそのように感じるのか。結論から書くと、本作とテレビシリーズとの最大の違いは“レントンの主観による物語ではなくなった”、つまり“客観化した”ことにある。小説に喩えて言うと、“一人称から三人称になった”とでも言おうか。

その裏付けのひとつとなるのが、今作で頻繁に登場するテロップだ。様々なメカや場所、時にはジャンクフードにまで説明文が挿入される。文字によって情報を可視化するというのは、物自体を客観視するということと同義だろう。特にその可視化によって本作で驚かされたのは、メカの存在感だった。

正直なところ、私はテレビシリーズのメカについては気にしたこともなかった。覚えているのはレントンが搭乗するニルヴァーシュと、そのライバルメカであるジ・エンドだけ。それよりも、レントンが直接相対する謎の生命体スカブ・コーラルのほうが気になっていた。

そんなざっくりとした見方が許されたのは、テレビシリーズがレントンの主観に寄り添っていたからだ。彼は戦う相手となったメカを気にしている様子はなかった。それよりは、エウレカをどう救い出すかであったり、メカに搭乗している実際の敵兵を気にしたりと、歳相応の考え方に寄っていた。それはレントンの成長を語るにあたっては最も有効な手段であったろう。だが、それゆえに世界の広さや謎についてはレントンを通してしか分からず、不明な部分があったともいえる。

しかし、本作ではテロップでメカの名称を知らせることで観客にその存在を意識させているほか、場所や時間を詳細に表示し、この世界で何が起こっているかを明確に描こうともしている。さらに、本作は冒頭で「レントンがテレビシリーズの物語に登場するまでの前日譚」が大規模な新規シーンとして描かれている。これも観客に客観的に世界を意識させるという理由で追加されたと思われる。つまり、本作はレントンの主観に重点を置くのではなく、世界の客観化に注力しているのである。

巧みな再構成による「文体の変化」

(c)2017 BONES/Project EUREKA MOVIE

小説を一人称から三人称に変化させるためには、文体そのものを変える必要がある。本作における文体の変更とは、テレビシリーズからシーンを切り取って再構成したということだ。総集編ものは、元の作品をただ短くしただけという印象で終わってしまう場合も多い。これは、作り手が構築した自分たちのかつての物語を壊してしまうことに躊躇してしまうからだろう。テレビシリーズはレントンの物語として見事に作り上げられていた。当然作り手も思い入れがあるはずだ。だが、今作は再構築という名のもと、非常に冷静にシーンをセレクトし、世界をより丹念に描くことに成功している。

さらに、再構築する際に、「順序を変える」「展開に応じて意味合いを変える」ほか、時には「台詞を正反対に変化させる」などといった手法も採用。しかも、BGMのテンポ感を重視した若干トリッキーな構築法で、心地よく見せている。自分たちがかつて積み上げた物語を客観視し、新たな物語として再構築する。単純なことだが、成功例の少ない手法をこれほど見事に成立させたスタッフの手腕に舌を巻いた。

モノローグに見る作品構造の変化

レントンのモノローグについても触れておきたい。テレビシリーズを象徴しているともいえる「姉さん……」から始まる特徴的なモノローグは、劇場版では「キミ……」から始まるものに変化していた。そもそもテレビシリーズの呼び掛けは、レントンがまだひとりの青年として成長しておらず、親代わりの姉に対して無意識に甘えているという意味合いも多分に込められていた。だからこそ、彼がエウレカと出会い成長していくことを象徴する台詞として活きていた。

それが「キミ」という呼び掛けになったのは、本作が“レントンの気持ちに寄り添うタイプの成長物語”ではなくなったからではないだろうか。それぐらい、レントンは(確固たる主人公であり続けているにも関わらず)、他のキャラクターと同じ立ち位置、登場人物のひとりとして客観的に描かれているのだ。

「キミ」という存在が観客なのか、特定の誰かなのか、あるいはエウレカなのかは本作では分からない。とはいえそれは他人=客観であることには間違いなく、そしてそのちょっとした違いこそが本作のテーマに深く関わっているのではないか。本作は3部作を予定している。今後公開が控える2作でも注目されるポイントだ。

『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』はスタッフがかつて作った物語を客観的に見つめ直し、一人称から三人称の物語へと転換することで、新たな展開を見せようとしている。これはある意味、物語の成熟とはいえないだろうか。それゆえ、かつてのファンにとっては、今の年齢でも無理なく見られる作品として映るだろう。もちろん、シリーズのことを何も知らない人にとっては、新鮮な物語として充分以上に楽しむことができるはずだ。