主人公レントン
『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』
2017年9月16日(土)全国ロードショー
(c)2017 BONES/Project EUREKA MOVIE
配給:ショウゲート

『交響詩篇エウレカセブン』を“再構築”した新作映画が公開!テレビ版との違いを探る

コラム

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文=松本洋一/Avanti Press

「エウレカセブン」シリーズ最新作となる劇場版『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』。本作はテレビシリーズ『交響詩篇エウレカセブン』の映像を再解釈、再構築し、新規作画を織り交ぜながら紡がれる新たな物語だという。ここで注意したいのは、単なる再編集ではないという点だ。“新たな”作品なのである。テレビシリーズとの違いとは何か。再構築のポイントに注目して探りたい。

テレビアニメ「交響詩篇エウレカセブン」(2005年)は、主人公レントンの成長物語としての一貫性、芝居とアクション両面における卓越した作画など充実した内容で人気を博したSFロボットアニメで、2000年代を代表する作品として多くの人の記憶に残り続けている。その後、2009年には劇場版『交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい』が公開。続く2012年にはテレビアニメ「エウレカセブンAO」が放送されるなど、シリーズは制作され続けている。

説明テロップが浮き彫りにする客観化した世界

10年前、世界を危機に陥れた現象「サマー・オブ・ラブ」で父を失ったレントンは、育ての親レイとチャールズのもと地方都市ベルフォレストで鬱屈とした日々を過ごしていた。そんな彼に転機が訪れ家を飛び出すことに。旅路で出会った人々との出会いと別れ、発掘人型機動兵器・ニルバーシュへの搭乗を経て、レントンは世界の理を知り、成長していく。そしてレントンの心に中にはいつも、彼を外の世界へと誘った少女エウレカの姿があった。

『~ハイエボリューション1』は、ストーリーの主軸こそある程度テレビシリーズに合わせているようだが、設定や作品が内包するテーマが若干ずらされ、何より見せ方が違っている。なぜそのように感じるのか。結論から書くと、本作とテレビシリーズとの最大の違いは“レントンの主観による物語ではなくなった”、つまり“客観化した”ことにある。小説に喩えて言うと、“一人称から三人称になった”とでも言おうか。

その裏付けのひとつとなるのが、今作で頻繁に登場するテロップだ。様々なメカや場所、時にはジャンクフードにまで説明文が挿入される。文字によって情報を可視化するというのは、物自体を客観視するということと同義だろう。特にその可視化によって本作で驚かされたのは、メカの存在感だった。

正直なところ、私はテレビシリーズのメカについては気にしたこともなかった。覚えているのはレントンが搭乗するニルヴァーシュと、そのライバルメカであるジ・エンドだけ。それよりも、レントンが直接相対する謎の生命体スカブ・コーラルのほうが気になっていた。

そんなざっくりとした見方が許されたのは、テレビシリーズがレントンの主観に寄り添っていたからだ。彼は戦う相手となったメカを気にしている様子はなかった。それよりは、エウレカをどう救い出すかであったり、メカに搭乗している実際の敵兵を気にしたりと、歳相応の考え方に寄っていた。それはレントンの成長を語るにあたっては最も有効な手段であったろう。だが、それゆえに世界の広さや謎についてはレントンを通してしか分からず、不明な部分があったともいえる。

しかし、本作ではテロップでメカの名称を知らせることで観客にその存在を意識させているほか、場所や時間を詳細に表示し、この世界で何が起こっているかを明確に描こうともしている。さらに、本作は冒頭で「レントンがテレビシリーズの物語に登場するまでの前日譚」が大規模な新規シーンとして描かれている。これも観客に客観的に世界を意識させるという理由で追加されたと思われる。つまり、本作はレントンの主観に重点を置くのではなく、世界の客観化に注力しているのである。

記事制作 : Avanti Press(外部サイト)