文=松本典子/Avanti Press

「ペリカン」といえば、東京ではパン好きならずとも多少の食いしん坊であれば知る(その名を耳にするだけで唾をゴックンしてしまう)有名店。食パンとロールパンしか置いていないにも関わらず、長きに渡り愛され続けている浅草の老舗パン屋です。

食べたいけれど行列や予約は苦手。そんな私ではありますが、浅草を訪れる際には「ダメ元で……」と浅草通りと国際通りの交差点を南へと向かう足取りを軽くします。運がよければ、「形が悪いから」と値引きされたロールパンに遭遇できて、ホクホク顔で帰途へつくこともしばしば。しかし、食パンはそんな偶然には手に入らない。前日までの予約、さもなくば開店直後に出向くしかない。とはいえ、予約も早起きも苦手……ううむ。

そんな私が態度を変えたのは、ドキュメンタリー映画『74歳のペリカンはパンを売る。』を見てしまったからでしょう。ええ、間違いないです。どなたかからのおみやげや差し入れという他力本願では次回いつ食べられるやら……。というわけで、すみやかに電話予約。後日ペリカンに赴いて、食パンを手に入れた次第です。ズシッと重い紙袋(堂々の2斤、全長30cm超ですから)が嬉しい。

(左)無事ゲットした食パンを、浅草通りと国際通りの交差点に戻ったところで記念撮影
(右)予約も早起きもできないと「品切れ」の可能性も……
photo: Noriko Matsumoto

さまざまなパン屋がひしめく東京で、
なぜペリカンのパンが愛されているのか?

『74歳のペリカンはパンを売る。』

映画は、ペリカンのある浅草の街を振り返るところから始まります。パン屋のドキュメンタリーであるのに、次に登場したのはカナダ生まれの三味線奏者・中村ノルムさんによる津軽三味線の音。パンを主食として来た人が、「ペリカンのパンは日本にしかない味わい、柔らかさ。手に取るときから気持ちいい。町(浅草)のプライドになるんです」と熱く語ります。彼だけではありません。ペリカンのパンのファンたち――製パンの専門家や関係する業者、常連などが「語らずにはいられない!」とばかりに次々と饒舌に。

さまざまなパン屋がひしめく東京で、食パンとロールパンしか焼かないパン屋がなぜここまで愛されているのか。周囲に語られることによって、ペリカンのパンのおいしさの秘密が紐解かれていく、というのが本作です。冒頭から何人もの証言が続き、しかし、まだ肝心のパンが出てこない。ジリジリしてきた頃合いで、白くてもちもちしたパン生地が実にスムーズに扱われる工場の光景に。やがて画面にドーンとタイトル。BGMは、初めてペリカンのパンを口にした監督の脳裡にはこの曲が流れたのだろうなと想像させる……バレエ音楽「くるみ割り人形」から「花のワルツ」ですよ。幸福感のリンク、わかるわかる(笑)。

『74歳のペリカンはパンを売る。』

初代店主が一般的なパン屋として創業したのが昭和17年。その後、2代目店主・渡辺多夫(かずお)さんが、パン屋が増える中での生き残り策として講じたのがホテルや喫茶店への食パンとロールパンの卸し。2種類の生地に集中したことで味が向上したのか評判となり、昭和40年代には一般客への販売も開始して現在に至るそうです。数年前、20代の若さで店主を継いだ4代目の渡辺陸さんは、常に2代目の言葉や行動を意識しながら、勤続40年超のベテランのパン職人・名木広行さんを師匠と仰ぎながら、研鑽を積んでいます。その名木さんは、2代目に育ててもらった恩義を忘れず、「ペリカンの味を守る毎日は、勉強の連続」と謙虚さを忘れません。また、巨大オーブンのメンテナンスを請け負う平賀東洋一さんは「仕事は自分のためにするのではない。仕事はお客さんのためにするものだ。2代目にそう言われてハッとした」と。難しいことだけれど肝に命じているのだ、と語ります。

ペリカンの味の秘密は、技術ももちろんだけれど技術だけにあらず。エンドロール冒頭に流れてくる「渡辺多夫」という名前。すでに故人であり本作には登場しない2代目の名がそこあるということは……そういうことなのだな。彼が残したパン屋としての哲学と矜持が今もペリカンの太い柱となっているのだな、と納得です。ちなみにペリカンとは、2代目多夫さんのニックネームだそう。

では、厚めにスライスして焼いてみます。
バターをたっぷりと載せて……至福。

(左)焼き上がったら即、バターをたっぷりと塗ります。ジュワジュワになるまで!
(右)スライスして、そのまま食べても。自然な甘みを堪能できます。
photo: Noriko Matsumoto

ペリカンの食パンを、厚めにスライス。ほんわり、ふわふわ、ほのかな香りが甘やかで(けれど、押しつけがましくない)。いかにも柔らかそうなのに、中身はしっかり詰まってもいます。ナイフを入れても、柔らかいパンにありがちな凹みは起きません。そのまま食べても美味しいことは判りきっているのですが、まずは焼いて、バターをつけていただくことにしましょう。

しっかり熱したグリルにて2分強、短時間で焼き上げる。これで、外はカリッ、中はもちもちというペリカンのトーストの至福を“確実に”手に入れることが可能です。何も塗らなくたって十分に美味しい。けれど、ちょうどフランスみやげの発酵バターがあるのでたっぷり載せます。バターを食べる! くらいの心意気です。ペリカンのパンはバターの風味を邪魔せず活かしてくれますので、惜しげも無くドーンと。齧るとジュワッ。

そういえば。作中、店頭でお客にインタビューするシーンがありました。週に2回は買いに来るという相当な常連さんです。「ペリカンのパンの魅力は?」と聞かれたその方、「味は……普通」とまさかの回答。けれど「いくら食べても食べ飽きない。わざとらしくない味」なのだと。いや、普通じゃないよ! そのまま食べてもこんなに美味しいじゃないの! とすでに2枚目をスライスし、今度は焼かずに食べながら思い返した私。異論を唱えたくもなりましたが、考えてみれば、これが普通だと感じられるほど食べ続けている常連さんならではの言葉ではないでしょうか。変わらない味をこれからも追求していくペリカンにとっては、この上ない賛辞なのでは? そこに気づかされて、もう1枚食べようかどうしようか、次はハワイ島でしか採れないという真っ白なはちみつを塗ってみようか……などと思いあぐねている次第です。