文=金原由佳/Avanti Press

「書を捨てよ、町へ出よう」

1967年、寺山修司は若者たちに呼びかけた。寺山は、当時、32歳。先鋭的な劇作家であり、演出家、歌人、作家であった。

最初は評論集として、次に劇団「天井桟敷」の舞台として、最終的には同名の映画として、内容や形態を変えながら、このメッセージは60年代を生きる若者に、深く浸透していった。同年、収まりかけていた“学生運動”は再び勢いを増し、10月8日には第一次羽田闘争が発生。その翌年には、東大・日大闘争が始まり、学生運動は日本中に広がった。その前夜の町は、危険をはらみつつも、“出会い”を引き寄せる運命の場でもあった。

あれから60年、寺山の唯一の長編小説「あゝ、荒野」が映画化された。

岸善幸監督(『二重生活』)は、映画の舞台を原作の1960年代の新宿から、東京オリンピックが終わった翌年の2021年の新宿に移し、親の愛に恵まれず、捨て犬のように暮らしていた2人の男の運命的な出会いを描く。その熱量はすさまじく、前編2時間37分、後編2時間27分という掟破りの一編に仕上がった。この長丁場を支えるのが主演、菅田将暉とヤン・イクチュンが奏でる恋とも愛とも友情とも形容しがたい、抜き差しならぬ関係性である。

その1 菅田将暉は相反する男ふたりのドラマでこそ光り輝く

『あゝ、荒野』10月7日(土)前篇、10月21日(土)後篇 新宿ピカデリー他2部作連続公開
(c)2017『あゝ、荒野』フィルムパートナーズ

菅田将暉演じるのは21歳の新次。幼少期に父親の自死を目撃した過去を持ち、その後、自分を捨てた母を憎み、犯罪に手を染めながら生きているところを仲間に裏切られ、少年院から出所してきたばかりだ。前編では、自分を取り巻く環境への怒りを抑えられず、狂犬のように荒れ狂う。感情を表す術は暴力しかなく、殴り殴られ、日々、血に染まりながら生きている。触れてくるものを傷つけずにはいられない刃物のような危なさを漂わせる新次が、ユースケ・サンタマリア演じるボクシングのトレーナー、堀口に拾われて、ボクサーとして鍛え直されていく。

もともと、菅田は、変貌の激しい俳優で、作品ごとにガラリとその表情を変える。今回は前後編を通し、プロのボクサーへと体と精神を研ぎ澄ましていく変化を、まるで記録映画のように映像に焼き付ける。彼はドラマデビュー作「仮面ライダーW」を筆頭に、『セトウツミ』では池松壮亮、『火花』では桐谷健太と、相反する男二人の人間ドラマで卓越した魅力を放ってきた。この映画でもヤン・イクチュンとの宿命の関係を鮮烈に演じている。

親の愛に恵まれず、財産も何もない。そんな男が身一つでのし上がっていけるのか。その説得力をボクサーの肉体を一から作り上げることで、動きで演じ、文句を言わせない。走って、殴って、スパークし、また走る。その一連の動作の美しさ。まさに菅田将暉の独壇場といえる。

その2 ヤン・イクチュンの憧れの眼差しが泣ける

『あゝ、荒野』10月7日(土)前篇、10月21日(土)後篇 新宿ピカデリー他2部作連続公開
(c)2017『あゝ、荒野』フィルムパートナーズ

一方、ヤン・イクチュンが演じるのは吃音と対人恐怖症から新宿の理髪店でひっそりと暮らしてきた理容師の建二。テロ事件が勃発する新宿の街で、昔の復讐のため、殴り込みに行った新次が仇敵に殴り返される場面に遭遇し、咄嗟に介抱したことで、導かれるかのように同じ拳闘クラブでプロボクサーを目指すことに。

イクチュンは自身が製作・脚本・監督・編集・主演した2009年の『息もできない』で、父親の愛に恵まれず、口汚い取り立て屋としての人生を歩んでいる男の悲哀を演じ、国際的に注目された韓国人俳優。今回は、言葉がうまく発せないため、複雑な思いをその表情で表すという難役に挑んでいる。特に雄弁に物語るのがその目。「兄貴」と無条件に慕ってくる新次を見つめる眼差しは、友情と恋情が入り混じったようなものに見え、映画では建二の目を通して新次の無邪気な表情が強調される。前編での蜜月のような共同生活の果てに、二人には同じ階級のプロボクサーとしての対決が待ち受ける。互いに上を目指すなら、避けようもない対決。そのとき二人はどんな顔で殴り合うのか。その激突の様が後編で展開されることになる。

その3 見捨てられた子どもたちを救う大人たちの包容力が渋い

『あゝ、荒野』10月7日(土)前篇、10月21日(土)後篇 新宿ピカデリー他2部作連続公開
(c)2017『あゝ、荒野』フィルムパートナーズ

『あゝ、荒野』で素晴らしきアクセントになっているのが、新次と建二を支える大人たちの存在である。街で暴れていた新次を発掘し、ボクサーとしての才能に希望を見出し、その身を粉にして新次と建二の生活を支えるジムのトレーナー、堀口(ユースケ・サンタマリア)。過去のボクシングがもとで片目を失った、ロートルのホストという役どころ。飄々としながらも、人生の重さも知りぬく男で、彼の俳優人生を代表する役柄に仕上がっている。

また、生き馬の目を抜く新宿をサバイブするジムのオーナー、宮木(高橋和也)の愛すべきいかがわしさ、新次と建二をトレーナーとして厳しく鍛えぬく馬場(でんでん)の頼もしさ。堀口、宮木、馬場のトライアングルが若い二人の復活劇をしっかりと支える。また、新次が敵役として憎しみを募らせる山本裕二役に抜擢された山田裕貴が、仲間を裏切らざるを得なかった男の痛みを体現する。菅田と山田の狂気の掛け合いは、前編のドラマを盛り上げる不可欠の要素だ。

その4 わけありの人間を優しく包み込む新宿という町の磁力

『あゝ、荒野』10月7日(土)前篇、10月21日(土)後篇 新宿ピカデリー他2部作連続公開
(c)2017『あゝ、荒野』フィルムパートナーズ

『あゝ、荒野』の時代背景である“少し先の未来”を成立させるのは、都庁が代表する新宿ビル群とあまたの娯楽産業がひしめく歌舞伎町が隣り合わせに存在する新宿という場の磁力だ。古くは1969年の『薔薇の葬列』から、『セーラー服と機関銃』(1981年)、『眠らない街 新宿鮫』(1993年)、『不夜城』(1998年)、『軽蔑』(2011年)、『新宿スワン』(2015年)で人間の業と欲を飲み込む場所として描かれてきたが、『あゝ、荒野』では孤独を抱える者を優しく包み込む場所として描かれ、二人の若者の再生の場として機能する。劇中、新次と建二は新宿ビル群から大久保駅に向かう高架沿いの道路を、何度もトレーニングでひた走る。

その地味で苦しい青春劇と並行して、政府が推し進めようとする自衛隊に関する政策に異を唱える人たちが街をデモで練り歩き、何者かが爆弾テロを繰り返し、何かを変えようとひしめく大学生たちが暗躍する姿も描かれる。原作にも登場する大学生のサークル「自殺抑止研究会」は、路上で暮らす大人たちを助けならがも、過激な形で世の中を変えようとする不穏な目論見が隠れる。この学生らのパートは、新次と建二のボクシングパートとあまりにも毛色の異なる演出がされているため、見た人の中でも賛否両論分かれるが、誰もが混迷し、様々な出来事が同時進行するからこそ、新宿の街は混迷する日本の象徴としても機能するのである。

その5 精神的な孤児たちの強い結びつきが表すもの

『あゝ、荒野』10月7日(土)前篇、10月21日(土)後篇 新宿ピカデリー他2部作連続公開
(c)2017『あゝ、荒野』フィルムパートナーズ

言葉の選択や表現に卓越した才能を発揮した寺山修司には、こんな伝説の言葉がある。「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」

戦死した父に代わり、生活のため、故郷の青森を離れ、遠く九州へと実母が働きに行ったため、一緒に暮らすことができなかった彼らしい言葉。大人になって彼は「家出のすすめ」という本を出す。その呼びかけに共鳴した若者たちが、親を捨て、彼の主催する劇団「天井桟敷」に全国から集まったという。

母とのねじれた愛を描きながら、親の愛を否定し、自立を説く寺山ワールド。小説「あゝ、荒野」も同様だが、映画は少し異なる。母親という存在は徹底的に子ども――、特に息子からの厳しい視線にさらされ、その生きざまを問われる。彼女たちに許されるのは、息子が突き進むさまを見ることだけ。

一方で、親を捨てた者同士の一体感は強い。故郷を捨て、新宿の片隅で暮らす芳子と新次のように、精神的な孤児たちが結びつくさまは、芳子を演じる木下あかりの体を張った演技もあってどこか切ない。芳子が故郷を捨てざるを得なかった背景にも、ここ数年の日本に襲い掛かった災害が関係していて、この映画は現実に起きた出来事を想起させながら、日本が進んでいるであろう危うい未来を予見してみせるのだ。

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東日本大震災の復興が、いつのまにか東京オリンピックにとってかわり、故郷や家族を失い、精神的な孤児となった人間が、時代や政府が一方的に作り出す大きなうねりに抗い、もがく。菅田将暉、ヤン・イクチュンの肉体を通して、それが強烈に刻み込まれたこの映画は、2020年まで私たちが時折行う決断と並走する、バイブルとなるだろう。