文=皆川ちか/Avanti Press

韓国発のゾンビ映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』(2016年)が日本でもヒットし、現在大きな注目を浴びているヨン・サンホ監督。もともとはアニメーション映画を作っていた人なのだが、子ども向けアニメが主流である韓国アニメ界では異色ともいえる、大人向け社会派アニメーション作家であったのだ。そのヨン監督が『新感染~』から遡ること3年前の2013年に手掛け、世界の映画祭で絶賛された『我は神なり』が間もなく日本でも公開される。

ダム建設によって間もなく水没する運命にある田舎の村。そこにトラブルメーカーのミンチョルが久々に帰ってくる。寂れた村の中で唯一活気があるのは、ミンチョルの不在中に建てられた教会だけだった。そこの青年牧師ソンは村民の尊敬を一身に集めるが、ミンチョルは彼の背後にいる詐欺師ギョンソクの存在に気づく。村全体がギョンソクによる詐欺計画のターゲットになっていると察知するミンチョルだが、自分の家族を含む誰一人としてそれを信じない……。

粗暴なトラブルメーカーと敬虔な聖職者が抱える共通点

本作の韓国語タイトルは「사이비(サイビ)」。“偽り、インチキ”という意味の言葉だ。この原題に象徴されるかのように、登場人物は様々な矛盾をはらんでいる。“真実”を見抜きながらも日頃の行動が災いして、誰からも信じてもらえないミンチョル。自分がギョンソクに利用されていると薄々感じつつも、理想の牧師像を演じるソン。田舎での暮らしに倦怠感を抱きながら、他に行く場所もなく、鬱々とした日常を送る村の人々。誰もが心に後ろ暗さを抱えていて、それを紛らわそうとするかのように、違うものに没頭している。

ミンチョルの場合は、真実究明にのめり込むことで、自分が虐待してきた家族と真正面から向き合うことを無意識のうちに遠ざけているように見える。ソンの場合は、過去に犯した自らの罪への贖いとして、布教に身を捧げている。粗暴なトラブルメーカーと、敬虔な聖職者。対極的なようでいて2人は似ている。

彼らだけではない。登場人物のほとんどが、本当に向き合わなければいけないものを直視するのを恐れるあまり、別のものごとに目を向けている。それもほとんど無意識に。それが最も顕著に表れているのが、ソンを支持する信者たちの姿だろう。ミンチョルの妻子をはじめ、村民の多くは教会に通いつめ、祈りを捧げ、献金している。荒涼とした田舎町の中で教会だけが熱気に充ちているという、どこか異様な光景。

観客は感じとるだろう。彼らは信仰することによって、現実から目を背けているのではないだろうか? と。ひたすらに神を信じて、それ以外には何もしない人々。自ら行動することもなければ、外の世界に目を向けることもなく、いつかくると確信している神による救いと赦しだけが、心の拠りどころとなっている。

それは果たして信仰なのか。もはや依存ではないか。それとも両方?

人生を豊かにし、充実させるものごとを
人生から目を背ける手段にしてはいけない

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ヨン・サンホ監督は厳しいほどに冷静な視線で、信仰心と依存心は紙一重であることを提示する。同時に、依存心の危険性が潜んでいるのは宗教だけに限ったことではないということも。仕事や趣味、生き甲斐、ライフワーク、そして夢。あらゆるものの中にそれは隠れている。

仕事あるいは趣味を心の拠りどころにしている人は多いだろう。夢を叶えることを、大切な目標として生きている人もいるだろう。拠りどころがあれば人生は豊かになる。目標があれば充実感を感じながら生きていける。けれど、私たちは常に注意しなければいけない。それらに飲み込まれてはいけないこと、逃避の手段にしてはいけないこと。人生を豊かにし、充実させるものごとを、人生から目を背ける手段にしてはいけないことを。

本作は、人の心の隙を突いて忍び込む依存心理の危険性を、信仰という伝わりやすい題材をとって描いている。あらゆる登場人物が抱えている矛盾も、後ろ暗さも、それらから目を背けた結果もたらされる結末も、たまらなくヘヴィで悲しい。それでも彼らは、そして私たちも、生きていかなければいけないのだ――この世界に神がいても、いなくても。