井浦新と瑛太が待望の初共演を果たした、11月25日公開の映画『光』は、わたしたち観客がなんとなく持っている「映画とは、こういうもの」というイメージを打ち破る快作だ。

単純な快作ではない。既成概念を破壊しているから、ノイズは否応なく派生する。このノイズは、ひとによっては不快にも感じるだろう。だが、不快をおそれていたら、「新しい快」には出逢えない。そう、本作は、快と不快がぶつかって混じり合った結果、産み落とされた「映画のネクストステージ」なのだ。

かつてないほど凶暴な「刃」

『光』の原作は三浦しをん。『まほろ駅前多田便利軒』(2011年)『まほろ駅前狂騒曲』(2014年)で三浦小説を映画化した、大森立嗣がメガホンをとっている。瑛太は『まほろ駅前』シリーズ2作で、井浦は『さよなら渓谷』(2013年)で大森監督と組んでおり、このあたりの顔ぶれは納得できる。それだけなら、どんなに暴力的な物語だとしてもおさまるところにおさまっていたかもしれない。つまり、わたしたちが思い描く「映画ってこういうもの」がここまで鮮やかに更新はされなかったかもしれない。

大森監督は本作に「爆弾」を仕掛けた。しかも、それはいきなり冒頭で爆発する。この爆発に導かれるように、映画はかつてなかったほど凶暴な「刃」を見せていくのだ。

「爆弾」とは音楽である。いや、ただ「音」と言ったほうがいいかもしれない。デトロイト・テクノの雄で、近年はオーケストラとの共演で、クラシック界にも新風を巻き起こしているジェフ・ミルズが手がけたエレクトロニック・ミュージックがのっけから鳴り響く。

大自然を切り取った映像にぶつけ、こすり合わせたその轟音に、わたしたちの神経は叩き起こされる。まるでライブ会場にいるような興奮と高揚。まだ映画の冒頭であるにも関わらず、わたしたちは理屈を超えた次元、すなわち本能のレベルであることを察知するだろう。この映画は「不協和音」なのだと。気がつけば、わたしたちは己の「獣性」に火をつけられている。

静と動が激突して生まれる「魔」

そうして、映画が本格的に始まる。桁外れの「食前酒」と「アミューズ」の洗礼を浴びたわたしたちは、物語も演技も、これまでの映画体験とはまったく別なかたちで捉えるようになる。

許されない罪を犯した島の少年・信之(井浦新)が秘密を共有しているのは、彼の弟分のような年少の少年・輔(瑛太)だ。そして、罪の現場に居合わせた魔性を秘めた少女・美花(長谷川京子)。やがて3人は島から出ていき、四半世紀後に3人は再会し、忌まわしいことが起きる。

公務員となり、妻子と共に実直な家庭を構えていたはずの信之の前に、荒んだなりの労働者として輔が姿をあらわす。彼はいったい、何のためにやって来たのか。やがて、いまは女優として活躍している美花も巻き込んで、25年前の秘密をめぐる想像を絶する展開へとなだれ込んでいく。

信之を演じる井浦新は、静。輔を演じる瑛太は、動。演技表現がまるで違う。異なる芝居のアプローチが激突して、ドキドキする。かつて兄弟分だったふたりの関係性が、変わり果てた姿で放置されている趣。なのに、まだ一緒にいなければいけない運命の皮肉に、心が揺さぶられる。

静かなたたずまいの中に、何か蠢くものを秘めている井浦。粗暴な絶叫の裏側に、無垢なる純情を隠し持つ瑛太。互いに本音をさらしてはいないことがわかるから、わたしたちは画面を凝視する。

いつか、何かが起きる。とんでもないことが、起きる。そんな「予感」に支配される。その「予感」を見下ろしながら、降り注いでくるジェフ・ミルズの「音楽の雨」。わたしたちはずぶ濡れになりながら、映画を観続ける。そうして「予感」がかたちになったとき、新しい映画の出現を目の当たりにするのだ。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)