文=皆川ちか/Avanti Press

“スイス”というと、みなさんはどんなイメージが頭の中に思い浮かぶだろう? 名作アニメ「アルプスの少女ハイジ」に出てくるような風光明媚な自然、壮麗な雪山、おいしいチーズにスキーにスノボー……といった連想をする方も多いのではないだろうか。そんな、どこか牧歌的で穏やかな国、スイスのイメージを激しく揺さぶる不穏なスイス映画『まともな男』が11月18日(土)より公開される。

主人公トーマスは、ごく平凡な中年会社員。妻マルティナと15歳になる娘ジェニーと共にスキー旅行へ出発する。上司の娘でジェニーの友人でもあるザラも連れていくことになり、楽しい休暇がはじまるはずだった。しかし、コテージの管理人の息子セヴェリンに誘われて娘たちはパーティへ出かけ、そこでザラがセヴェリンにレイプされてしまう。事態を収拾するためにトーマスは小さな隠ぺいを重ねていき、やがて状況は雪だるま式に最悪の結末へと転がってゆく……。

“家族旅行”や“子どもたちの監督者”といった、一般的な常識を備えている社会人にとって身近なキーワードを散りばめたストーリー自体は目新しいものではない。しかし、そこに“デートレイプ”という立証するのが難しい犯罪を加えることによって、トーマスは自身の人間性を試されることになる。そして、彼が平凡な人間であるからこそいっそうに、トーマスの悩みは観客にとっても共感できる悩みとなっていく。

見ていていじらしくなるほど真面目で優しい“まともな男”

『まともな男』
(c)Cultural Life & PLAN B FILM. All Rights Reserved.

冒頭でトーマスはセラピストに「僕はいたって普通の、まともな人間さ」と語っている。酒はもう止めた、子育ても一段落した、小説家だった妻の執筆再開に協力したい、と。彼がなぜセラピーを受けているのかは、この段階では分からない。ただ会話の端々から察するに、ストレスと飲酒で何か問題か事件でも起こしたのかもしれないということを映画は匂わせる。

実際にトーマスは普通の、いや、普通以上に真面目で優しい、よき家庭人であり、よき社会人として描かれている。旅行に気乗りしていない妻を労り、反抗期まっさかりの娘をなだめ、家族旅行に紛れ込んだことになじめないザラを気遣う。みんなで仲良く休暇を過ごそうとなにくれとなく心を砕いて、どこか愛らしさを醸し出すぽっちゃり体型も手伝って、見ていていじらしくなるほどだ。

多くの嘘やごまかしの結果がそうであるように……

『まともな男』
(c)Cultural Life & PLAN B FILM. All Rights Reserved.

そんな“まともな男”のトーマスが、未成年者のレイプ事件に遭遇してしまう。被害者のザラから、「(レイプされたことは)誰にも言わないで!」と懇願されたことを理由に、トーマスは全力でレイプの事実をひた隠す。妻に嘘をつき、娘を言いくるめ、「やっぱり警察に行ってぜんぶ話す!」と考え直したザラを「そんなことをしても傷つくのは君だ」と説得(?)し、折衷案としてセヴェリンに謝罪をさせることにするも、その父親から「うちの息子を侮辱する気か?」と逆ギレされる。そして妻からはザラとの関係を怪しまれる。負のスパイラルはいったん加速するや勢いを増し、やがて第二の悲劇が起きる。

トーマスの取った選択は間違いだらけではあるけれど、彼は悪意をもってそうした行動をしているわけではない。むしろその反対で、「よかれと思って」や「穏便に済ませるために」という気持ちから嘘やごまかしを重ねていく。そして現実の多くの嘘やごまかしの結果がそうであるように、気づいたらもう後戻りできない状態まで進んでしまう。

けれど同時に、観客はこうも思うだろう。後戻りできない状態まで進んでしまう前に、別の選択を取ることはできなかったのだろうか? と。例えば、妻に相談して一緒に解決策を考える。例えば、ザラの父親(つまり自分の上司)にすぐに知らせて自分の監督不行届を正直に謝罪する。例えば、ザラと共に警察へ出かけて加害者であるセヴェリンを徹底的に糾弾する。

これらの行動をとることは、レイプ事件を隠ぺいするよりも、ある意味では危険な行為だ。一歩間違えたら、妻や上司や世間から責められ、なじられ、すべてを失うかもしれない。しかし、それでも嘘やごまかしをしていない分、心の平安は得られるのではないだろうか。だけれども、トーマスはその道を選ばなかった。自分の良心をねじふせて、代わりに自らにこう言い聞かせた。

レイプを告発することで、ザラは世間から好奇や偏見の目で見られるだろう。レイプを告発されることで、セヴェリンは将来を奪われるだろう。自分たち夫婦は保護者としての責任を問われ、そして自分は間違いなく会社をクビになるだろう。真実を明るみにしたら、誰もが不幸になる。ならば隠そう――自分のためだけではない、みんなのために。

誰にとっても覚えのある、共有できる感情

トーマスの陥ったこうした心境は、けっして特別なものではない。誰にとっても覚えのある、共有できる感情ではないだろうか。自分の家族を、安全を、平穏な生活を守るためなら、たいていの人はトーマスと同じことができるだろう。若干、良心に痛みを感じながらも、その痛みに気づかないふりをして、平凡な、まともな日常を生き続けることを選ぶだろう。

だからこそ、その選択の結果、彼が転げ落ちる悲劇とその顛末が、私たちに他人ごとではない恐ろしさと共感を刻みつけるのだ。トーマスは、私であり、あなたでもあるから。