11月23日に公開された映画『火花』は、芥川賞に輝いた又吉直樹の処女小説『火花』(文藝春秋)を板尾創路監督が映画化した作品で、菅田将暉と桐谷健太のW主演。菅田は「2丁拳銃」の川谷修士という現役最前線のプロ漫才師と、桐谷はかつて芸人として活動していた三浦誠己とコンビを組み、それぞれ「スパークス」、「あほんだら」というお笑いコンビとして、劇中で漫才を披露している。ここでは「スパークス」と「あほんだら」がどんな漫才を繰り広げていたのか、映画撮影現場の取材をもとに具体的に紹介していきたい。

漫才シーンの撮影時は、毎回ひとつのネタをすべて披露

まず、映画『火花』のストーリーを簡単に紹介しておきたい。若き漫才師・徳永(菅田将暉)が、天才的な才能を持ちながら埋もれたままでいる先輩芸人の神谷(桐谷健太)と出逢い、自ら「弟子入り」を志願。本作は、そこから始まる10年に及ぶ交流を描いたものだ。

映画は約2時間という限られた尺の関係もあり、徳永が「あほんだら」の漫才に衝撃を受ける冒頭のシーンと、「スパークス」のラストライブ(ここがある意味、映画のクライマックスとなる)を抜きにすれば、映画本編ではひとつのステージをじっくりとはフォローしていない。本編には、漫才の断片が散りばめられている。だが、菅田と川谷も、桐谷と三浦も、漫才のシーンを撮影するときは毎回、ひとつのネタをすべて通して演じていたのだ。

(C)2017『火花』製作委員会

ズラされながらも、グッとくる「スパークス」のシュールな笑い

それでは、各コンビの漫才に触れていこう。まずは、「スパークス」。菅田扮する主人公、徳永は、原作に比べれば素直なキャラクターとして映画では描かれているが、ボケ担当の彼が創作する漫才には、ちょっとだけひねくれた性格が表出している。

この物語の中で「スパークス」の最も初期にあたる漫才として紹介されるのが「テレビまけて」という演目。設定としては2001年のネタである。テレビを買い換えようと思った徳永は、相方の山下を相手に、家電量販店で値切る練習を始める。

いきなり「乾電池ください」とボケる徳永。さらに、最新モデルの40インチが59,800円と言われ「ちょっと高いかな?」と返す徳永に、山下が「うちは地域最安値でやらせてもらってますんで、これが限界ですね」と断ると、「え?でも、さっき見てきた店の方が安かったけどな〜」と抵抗。山下が「え?うちより、安い値段でありましたか?」と驚くと、「ええ。さっき見てきた牛丼のほうが……もう全然、安かったですね」とすっとぼける。以降は、紅生姜や生卵無料券といった牛丼ネタが続いて、値切るという行為がシュールな方向に転んでいく。

家電量販店で値切る練習が、どんどんズレたものに発展、変化していく展開が徳永は好きなようで、設定としては2008年の「ゾンビの対処法」で、その洗練されたかたちが楽しめる。徳永の「すまん、ちょっとええかな?」で始まるこのネタは秀逸で、「スパークス」の代表作と言ってもいいだろう。

「俺、3日連続お前がゾンビに食われる夢見てんねん」と語りだす徳永。お前にもう死んでほしくはないから、ゾンビの対処法を覚えて帰ってほしい、そうすれば、自分の脳の認識も変わり、夢の内容が変わるからと、徳永は山下に懇願する。山下は当惑しながらも、あくまでも真剣な徳永を受け入れ、練習を開始。だが、光に弱い、視力が弱い、元は人間だから情に訴えると弱い、とその都度徳永に用意された設定を山下が踏襲しては、ゾンビ役の徳永に裏切られ、毎回食べられてしまう。

漫才のネタから垣間見えるコンビの絆

「ゾンビの対処法」では、「乾電池ください」の頃に比べるとボケとツッコミの呼吸がしっかりしており、「スパークス」ならではのテンポが完成している。観客はごく自然に笑いに引き込まれるほど、高い精度の漫才になっている。

だが、それ以上に重要なのは、徳永の山下への想いが顕在化している点だろう。「俺はお前がもう死んでほしくないねん!」と頼む徳永の姿はギャグではあるが、相方への愛とも言える。「山下、今晩は生きて帰ろうな」と練習をスタートするときの徳永は口にするのだが、これは笑わせながらもグッとくる台詞だ。そして、「お、おう!頑張るけど、お前の夢やからな、俺にどうこうできるとは思わんけど。まあ、ええわ。で、どうしたらええの?」と引き受ける山下の様子が素晴らしい。

漫才コンビのファンはきっと、こうしたネタに偏在しているふたりの絆にもほだされて、そのステージに通い詰めるのではないだろうか。徳永はあくまでも無意識だったに違いない。だが、彼が作り上げたネタには相方を大切にする一途な想いが滲んでいる。そして、この想いが、ラストライブのネタにつながり、感動を呼ぶのだ。

「スパ―クス」のネタの数々は、一組の漫才コンビが辿る推移を描きながら、ボケとツッコミそれぞれの人間味を醸し出すことに成功している。そこには、芸人、板尾創路ならではの着眼点であり、プロ中のプロである彼の俯瞰的な「ものさし」が冴え渡っている。

また、先輩にしろ、後輩にしろ、過酷な芸の世界で、もがき苦しみながら生き抜いたり、離脱したりといった人々を見つめてきた板尾ならではのまなざしも感じられる。劇中で使用されている漫才場面はごく一部だが、一つの演目を役者たちがしっかり演じているからこそ、キャラクターの厚みにもなり、映画に奥行きをもたらしている。

(C)2017『火花』製作委員会

漫才の仕組みを転覆させかねない、アバンギャルドな「あほんだら」

そして、徳永が衝撃を受けた漫才コンビ「あほんだら」。ボケの神谷とツッコミの大林が繰り広げるのは、シュールというより、明確にアバンギャルドで骨太な、他の追随を許さないネタばかりだ。彼らの非凡さを最もハッキリ打ち出しているのは、「余命3ボケ」をめぐる演目である。

あと3回ボケたら死ぬ。だから、自分にツッコミを入れないでほしい。そんな途方もない設定を大林に押し付ける神谷。漫才をしているのに、ツッコミを入れないとは何事か?と当惑する大林を尻目に、神谷は漫才というフォーマットそのものが転覆するかもしれない「ただの世間話」を延々と続ける。退屈そうに傍観していた大林だが、ある拍子に、ほとんど条件反射のようにツッコミを入れる。「ツッコむなや!もう俺の余命1ボケになってもうたやないか!」と神谷がキレて、間もなく幕。

このネタは本当に凄い。徳永が神谷に惚れ込んだのも納得できるほど、キレがある。ただただボケ続ける漫才はたくさんある。だが、ステージで披露しても仕方がないような普通の話が大部分を占めるこのネタは常軌を逸している。

そして、ツッコミの本能ともいうべき部分がつい炸裂してしまう大林の姿は、漫才師の身体に染み付いた性を批評してもいるのだ。いわゆる情緒というものを完全に振り切った、まさにキレッキレの笑い。「断ち切る」という凶暴性と快感を同時に観客に突きつける神谷の笑いには、躊躇や忖度が微塵もない。

「あほんだら」が披露した、おそるべき2つめの演目

そればかりではない。このステージは正月の漫才コンテストでのものだが、このコンテストは一組2つの演目を披露するという構成。ところが「あほんだら」が2つめに選んだのはおそるべきものだった。「余命3ボケ」の漫才の音声をそのまま流し、口パクで演じる。だが、ふたりの動きは次第にズレていき、しまいには音声を無視して、ステージ上で喧嘩を始める。このルール無視、ある意味、コンテストという催しそのものに唾を吐きかけるようなパンクな姿勢は「あほんだら」という漫才のキャラクターを明瞭にあらわしている。

極論すれば、観客が笑えるかどうかはどうでもいい。ステージで起きていることが、本質的に、面白いか?面白くないか? それを突きつけているのだ。その挑発的な態度は、前衛的なハプニングアートにも限りなく接近している。

「スパークス」の笑いがキャリアを重ねるごとに年輪を増しているのとは対称的に、「あほんだら」の漫才自体は10年間ほとんど変化せず、孤高であり続けたことも、このネタは浮き彫りにしている。

こうした背景を鑑みながら臨むと、映画『火花』は、二度三度と噛めば噛むほど「美味しく」なる作品だ。架空のキャラクターではあるが、漫才師の漫才をしっかりクッキリ体現したキャスト陣、そして、妥協なく、すべての芸人たちへの愛情を注ぎ込んだ板尾監督の演出に魅了されることは、間違いないだろう。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)