文=新田理恵/Avanti Press

年の瀬になると町に響きわたるベートーヴェンの交響曲第九番、通称「第九」のメロディ。なかでも「歓喜の歌」のフレーズは、老若男女「聞いたことがない」という人はまずいないというほどポピュラーだ。

1964年、ベルギー・ブリュッセルで、天才振付家モーリス・ベジャールによる舞台『第九交響曲』が初演された。本来、それぞれがひとつの舞台を形成するバレエ、オーケストラ、合唱が、三位一体となったこの革新的なステージは、20世紀の歴史に残る“傑作”として語り継がれている。そんな“「第九」を踊る”という壮大な試みに迫ったドキュメンタリー映画が『ダンシング・ベートーヴェン』(12月23日公開)だ。

『ダンシング・ベートーヴェン』12月23日ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
(c)Fondation Maurice Béjart, 2015  (c)Fondation Béjart Ballet Lausanne, 2015

2007年にベジャールが死去すると、「『第九交響曲』の再演は不可能」だとして、この舞台はまさにレジェンドになったかと思われた。だが、2014年に東京バレエ団とモーリス・ベジャール・バレエ団による共同制作として、奇跡的に復活を遂げる。映画はその舞台裏を追う。

「第九」は年末の曲じゃない!?

煌びやかなステージの裏側では、ダンサーたちの血が滲むような稽古の日々や、キャリアと女性としての幸せの間で揺れ動くメインダンサーの葛藤、苛烈なポジション争いなどが繰り広げられていた。そして公演が迫り、ダンサー、オーケストラ、合唱団など、総勢350名の出演者が東京に集結。さまざまな人の想い、創造力、努力がひとつになって『第九交響曲』が出来上がっていく様子を、スペイン出身の女性監督アランチャ・アギーレがカメラに収めている。

折しも、ベジャールの10回目の命日にあたる11月22日、来日したアギーレ監督を取材することができた。日本人はつい“年末”をイメージしてしまう「第九」だが、とりわけ「歓喜の歌」は、ヨーロッパの人々にとって、まさに欧州を代表する曲だと教えてくれた。

『ダンシング・ベートーヴェン』アランチャ・アギーレ監督 撮影=新田理恵

「『歓喜の歌』というのは、EU(欧州連合)の公式曲なんです(※)。これは私個人の意見ですが、ヨーロッパのなかの最もノーブルな部分を代表しているのが『第九』。ヨーロッパにはもちろんいろいろな問題もありますが、最も尊いもののひとつがクラシック音楽であり、それを代表する傑作が『第九』だと思います」

(※ヨーロッパ全体を代表する「欧州の歌」として欧州評議会が採択しており、EUも「歓喜の歌」を欧州の歌としている)

「第九」を作曲した頃のベートーヴェンは、聴力を完全に失っていたと言われている。重厚なオーケストラの演奏に合わせて踊る『第九交響曲』のダンサーたちの身体はまるで音符のようで、ベートーヴェンの頭の中で鳴り響く音楽を可視化しているように見えて面白い。

『ダンシング・ベートーヴェン』12月23日ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
(c)Fondation Maurice Béjart, 2015  (c)Fondation Béjart Ballet Lausanne, 2015

モーリス・ベジャールという稀代の振付師の存在

「ひとつになれ、人類よ」——。「第九」が謳い上げるメッセージにふさわしく、ダンサーたちが人種や国境の枠を超えて共に躍動し、オーケストラを担当するイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の団員たちと壮大なステージを繰り広げる様子は感動的だ。

「東京バレエ団は日本人のみ、パリ・オペラ座はフランス人のみ、ボリジョイ・バレエはロシア人のみという形で構成されていますが、モーリス・ベジャール・バレエ団は世界のあらゆる国のダンサーが集まっているのが特徴です」とアギーレ監督は言う。

ベジャールによる「第九」が唯一無二の舞台になり得たのは、「彼の勇気による部分が大きい」と監督は語る。「批判を受けることをいとわず、敢えてチャレンジングな作品に挑もうとする。ベジャールは誰も想像しなかったことを敢えてやる人でした」

モーリス・ベジャール・バレエ団を追い続けてきた監督は、過去にもベジャール亡き後のバレエ団存続をかけた後継者たちの葛藤を追ったドキュメンタリー映画『ベジャール、そしてバレエはつづく』(2009年)を撮っている。天才振付家ベジャールの魅力を、「作品を通して、人間性を観客とシェアできる能力を持った人」だと分析する。「幼いときからダンスを学んでいた私がベジャールのバレエ団と出会ったのはまだ10代の頃でした。マドリッドでプログラム公演を見たのですが、“ダンサーを見る”というより、“人間そのものを見る”という、それまでのバレエ作品とはまったく別のフィーリングを感じました。人間としての自分が喚起されているような、自分が人間であることに誇りを感じるような経験をしたことを覚えています」

『ダンシング・ベートーヴェン』12月23日ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
(c)Fondation Maurice Béjart, 2015  (c)Fondation Béjart Ballet Lausanne, 2015

美しいもの、才能あるアーティストたちがストイックに努力する姿が感動を呼ぶバレエ映画は、女性の間で人気の高いジャンルだ。今年も『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』、『ポリーナ、私を踊る』といったバレエ映画が日本でも公開された。「本を読む、劇場に行くなど、文化の擁護者に女性が多いのは全世界的傾向ですよね。ダンスはビジュアル的に美しい上、映画と同じく“Movement(動き)”をテーマにしたリズムが重要な芸術。映画と相性が良く、カメラを魅了する芸術です」とアギーレ監督は言う。

戦うなら理由はひとつ。文化を守るため、では?

日本ではバレエダンサーというと、まだまだ「お稽古事の延長」というイメージが強く、職業としてのその地位の確立や待遇の厳しさが問題視されている。監督の故郷スペインではどうかと聞くと、「スペイン・バレエの歴史は浅いので、フランスのように盤石ではない」のだそう。「ですから、スペインのバレエダンサーはほかの国に流出する傾向があります。さらに経済危機の影響で、芸術家を取りまく環境がますます不安定化している。よほど恵まれている国を除けば、世界各国で同様のことが起きており、闘わなければならない状況だと言えます」

『ダンシング・ベートーヴェン』12月23日ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
(c)Fondation Maurice Béjart, 2015  (c)Fondation Béjart Ballet Lausanne, 2015

経済や政治の安定はもちろん大事だが、国や国民を真の意味で豊かにするのは文化的な豊かさだ。「第二次世界大戦中、『戦時中なのだから、文化予算をカットして国防にまわすべきだ』と進言された英国のチャーチル首相(当時)が、『なぜなんだ? 文化を守るために戦ってるのではないのか?』と答えたという逸話があります。政府や政策決定権を持っている人が意識を改革して、文化は守るべきものだと理解することが必要です」

人間が持つ創造性や芸術性をギュッと凝縮した「第九」の舞台。この年の瀬、その豊かな文化の粋(すい)を映画館で味わってみてほしい。