業界内でも生粋の映画好きとして知られる俳優・斎藤工。彼は、「齊藤工」名義で監督活動もおこなっている。これまで発表しているのは音楽のPVも含めた短編6本。7本目となる『blank13』で初めて長編映画を手がけ、2月3日(土)よりシネマート新宿にて、2月24日(土)より全国で順次公開となる。では、その作品はどのようなものなのか。監督としての手腕はいかほどのものなのか紹介していこう。

“省略の美学”を突き詰めた長編デビュー作

『blank13』は、上映時間70分。長編というより中編に近い上映時間だが、この分数選択がまず鮮やかだ。多くの劇場公開映画は90分から120分程度であり、それが映画の基準とされている。150分を超えれば大長編の枠組みに入り、3時間にも達するともうそれだけで力作のお墨付きが得られるだろう。

70分というのは「習作」めいた印象がある。自主映画では珍しくない尺ではあるが、一般的な観客が「新人監督の長編デビュー作」を観に行った場合、やや拍子抜けする分数なのではないだろうか。身構えて劇場に向かったら、「あれれ?」と思うような短さである。だが、この「拍子抜け」こそが、監督、齊藤工の狙いなのだと思う。

映画というメディアには“省略の美学”というものがある。それを突き詰めていけば、1時間前後でも豊潤な物語世界を繰り広げることは可能である。描きたいことを全部描ききることだけが映画ではない。想像させる力。優れた映画にはそのエナジーが備わっているものだ。だから70分で「映画ならではの物語」を物語ることができれば、それは監督の技量を示すことにもなる。

初長編で3時間超えの作品を放てば、熱量はダイレクトに伝わるだろう。だが、齊藤工には、控えめな野心がある。『blank13』は、彼ならではの野心が堪能できる作品と言えるだろう。

斎藤工を含めた、配役の妙

また、キャストも盤石だ。主演は、現在ブレイク中、破竹の勢いで突っ走っている高橋一生。いまが旬の同世代(高橋は1980年生まれ。斎藤は1981年生まれ)をメインに据え、自分は主人公の兄に扮するというバランス感覚も見事だ。

俳優が監督を務める場合、自身が出演するか否かという問題が常につきまとう。監督なんだから、とあえて出演しないという選択肢もある一方で、それでは商品価値が生まれないからと、開き直って出演する者もいる。

監督・齊藤工は、俳優・斎藤工を「物語の傍観者」として登場させることを選んだ。なぜなら、その立ち位置は、映画作品における監督のポジションに近いからである。

本作は、13年前に失踪した父親と主人公との「ふたつの再会」を描くが、この父親に扮しているのがリリー・フランキー。何もしていないように見えるのに、なぜか観る者の深層に確かな印象を残す名手だ。高橋とリリーの二人芝居を映画の見どころに設定し、俳優としての自身はサポートのみに徹する。

目立ちすぎない。かといって、ストイックにもなりすぎない。なるほど、監督・齊藤工は、俳優・斎藤工の持ち味もよく理解しているのである。

タッチの異なる二部構成が与える感慨

『blank13』の最大の野心は、二部構成にある。いや、二分割と言ったほうがいいかもしれない。

前半のタッチと、後半のタッチは大きく違う。いや、描かれていることも違うし、視点も違う。ネタバレに抵触するので、詳しく書くことは慎むが、後半こそ齊藤監督が「本当にやりたかったこと」なのではないかと思わせられる。

前半は、父と息子の距離感を、綯い交ぜになった愛憎もろとも丁寧に描いている。高橋のピュアさも、リリーのナイーヴさもうまくハマっており、これは正統派の感動作だとほとんどの人は考えるに違いない。だが、この作品が目指していたのは、ありきたりの感動ではなかった。

少年時代と現在とを行ったり来たりしていた前半から一転、後半はほぼワンシチュエーション・ドラマと化す。画面の中心に居座るのは、前半では登場してこなかった人物たちばかりであり、高橋一生も、斎藤工も、そしてリリー・フランキーも傍観者になる。

物語の中心にいたはずの存在が、傍観者になること。おそらく、これこそが齊藤監督の目論みであろう。傍観者には傍観者だからこそ表現できる感動があるということ。後半は実にコミカルなタッチで(ときに、脱力するほどに)その真実を伝える。

前半と後半は、例えるなら赤ワインと白ワインほどに違う。いや、酒の席で例えるなら、1軒目、2軒目ほどに異なる。酒も、料理も、店の人格もまるで違うのだ。だが、2次会は、1次会がなければ成立しない。1軒目の酔いがあるからこそ、2軒目には味わいが生まれる。人生も、家族も、記憶も、きっとそのようなものかもしれない。「拍子抜け」する構成に直面しながら、気がつけばわたしたちは、そんな感慨にひたっているのである。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)