『赤い風船』(1956年)、『大人は判ってくれない』(1959年)、『友だちのうちはどこ?』(1987年)など、子供を主人公にした名作は古今東西たくさんある。4月に公開となる『泳ぎすぎた夜』は、その系譜に連なる映画であり、日仏、ふたりの監督が共同で手がけた傑作だ。既に2018年を代表する1本になりそうな風格と余韻があり、真新しい息吹きを運んでくる愛すべき佳品なのだ。

行き当たりばったりの冒険から目が離せない

家族は登場するものの、本作の主な被写体は男の子ただひとりである。撮影当時はまだ7歳の小学生だったという、古川鳳羅(こがわ・たから)。これは彼を見つめるための映画だと断言してもいい。それほどまでにこの少年は魅力的だ。いつまででも眺めていたくなる表情と動作がそこにある。

筋立ては極めてシンプル。早朝、目を覚まして眠れなくなった古川鳳羅が演じる主人公は、クレヨンで絵を描き始める。退屈しのぎなのか、単なる思いつきなのか、どちらでもあるかもしれないし、どちらでもないかもしれない。映画はそこに一切の説明を加えずに、彼の動向を追いかけていく。

朝食をとりながら眠ってしまうような朝。よろよろと登校した彼は、ふと学校をさぼり、ふらふらと雪におおわれた道を歩き始める。そうして、まるで気まぐれのように、自分がクレヨンで描いた絵を、魚市場で働く父親の許に届けるための小さな旅に出る。

行き当たりばったりの冒険。何か、とんでもないことが起きるわけではない。ドラマティックな出会いもなければ、わかりやすく胸に沁みるエピソードが紡がれるわけでもない。言ってしまえば、これは男の子が迷子になるだけのお話なのである。

鼻歌を歌ったり、ため息をついたりはするが、彼は一切言葉を発しない。唯一、たまたま出くわした犬に向かって、四つん這いのポーズで「ワン!」と挨拶する以外は。

孤独な旅をたのしむ天然の勇敢さに魅せられる

だが、その姿からまったく目が離せない。最低限の劇中音楽はあるものの、台詞のない沈黙の世界は、舞台である冬の青森の白とも相まって、まさに静謐そのものなのに。なぜなら、古川鳳羅の身体が語りかけてくるものが、きわめてイマジネイティヴで、情感にあふれているからだ。

ひとりであることをおそれていない天然の勇敢さ。見知らぬ場所で、見知らぬものに目を留め、それをなんとなく享受し、しかし、決して長居はせずに次に進んでいく。

ただの好奇心には留まらない、多様な広がりを持ったそのまなざしは、移り気でもあるし、どんな状況でもたのしめるという意味においては、とことん一途でもある。そんな、形におさまらない「個人的な魅力」が、わたしたちのまなざしを掴むのだ。

この映画を観て「可愛い」とか「(迷子になって)可哀想」といった感想はほとんどもたらされないのではないか。「子供」という存在に対してなんとなく抱いている先入観が崩されていく心地よさがある。

まるで紙芝居のように淡々と綴られていくわずか79分の作品。だが、小さな旅が終わると、彼に出会えてよかったという真っ当な感慨が静かに押し寄せてくるだろう。そのとき、この映画は、フィクションから、観た人それぞれにとってのドキュメンタリーになる。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)