『ゆきゆきて、神軍』(1987年)で知られる伝説の映画作家、原一男が『全身小説家』(1994年)以来、実に23年ぶりのドキュメンタリー作品『ニッポン国VS泉南石綿村』(3月10日公開)を完成させた。撮影に8年、編集に2年を費やしたという本作は、上映時間がなんと215分! 3時間35分もの記録映画と聞けば尻込みしてしまいそうだが、これが実に面白い。これだけの長尺にもかかわらず、まったく目が離せないのだ。その理由を紐解いていきたい。

裁判の行方よりも、ひとりひとりを凝視する

『ニッポン国VS泉南石綿村』は、「大阪・泉南アスベスト国家賠償請求訴訟」の行方を追いかけた作品である。

「大阪・泉南アスベスト国家賠償請求訴訟」は、大阪・泉南地域の石綿(アスベスト)工場の元労働者や遺族らが国を訴えた裁判。泉南は、明治の終わりから石綿産業で栄えたが、アスベストは肺に吸い込むと長い潜伏期間の末、肺ガンや中皮腫を発症する恐ろしい物質だった。国は70年以上も前から調査を開始し、健康被害を把握していながら、経済の発展を優先し、具体的な規制や対策をおこなってこなかった。2006年5月、原告らが国の責任を問うために提訴。そこから、2014年10月に国が敗訴するまでの怒涛の道のりを追いかけている。

どうにか逃げようとする国側の、潔さ皆無の対応。長引く裁判。その間にも、原告団はひとり、また、ひとりと命を失っていく。弔い合戦と化していく裁判は、まさにエモーショナルだ。

だが、この映画の真の魅力は、被害者たちが国を打ち負かす様にあるわけではない。名もなき人々の不屈の抵抗を凝視してはいる。だが、被害者である原告側を、単純に哀れんだり、美化したりはしていない。そうではなく、彼ら彼女らを、真に見つめるべき「人間」として、映像におさめているのだ。

人間はあやうく、足並みが揃わないから面白い

ドキュメンタリーであれ、フィクションであれ、こうしたシリアスな題材の作品のほとんどは、被害者を「悲劇の主人公」に規定してしまう。観る側の同情心をシンプルに煽ることを最優先させるためだ。

とりわけ、今回の作品のように、被害者が複数いて、その人々が集団で決起している場合は、混乱が生じないようにグループ全体を「正義」という、わかりやすく安易なファクターでくるんでしまう。だが、それではただの、つまらない勧善懲悪ものになってしまう。原一男はそうした愚を犯さない。呆れるほどの地道さで、ひとりひとりにカメラを向け、寄り添い、決して「ひとつの色」で染め上げることをしない。

原告団には、さまざまな考え方の人がいる。武闘派もいれば、穏健派もいる。正義を押し通そうとする人もいれば、何が何でもという強引さからは一歩退きたい人もいる。だから、必ずしも一致団結しているわけではないし、足並みが揃っているわけでもない。ときには弁護団との軋轢だって生じる。

考えてみれば、当たり前だ。ひとりひとり独立した大人であり、集団とは個人の集まりにすぎないのだから。原監督は、この真実から目をそらさず、そんな「すれ違い」のあやうさを視界に捉えながら、その上で人間を肯定してみせる。

この映画が、まったく退屈さを感じさせない理由は、人間という存在の複雑さに首を傾げるのではなく、その複雑さも含めて、まるごと痛快に描いているからに他ならない。そう、一筋縄ではいかないから、人間は面白い。その面白さににじり寄る映画の腕力が、痛快さを呼び起こすと言ってもいい。

本作では、バタバタと人が死んでいく。その様は無念である。ところが、映画は決して悲壮感をまとったりはしない。語弊があるかもしれないが、犠牲者が生まれれば生まれるほど、立ち止まることのない映画のスピードは加速していく。本作は二部構成だが、丁寧な前半から一転、後半は「止まらない」勢いで走りぬく。3時間35分は本当にあっという間だ。

原監督は、自然に映り込む個人個人の「違い」を決して見逃さない。例えば、アスベストに侵され、死期を悟っているかに思える夫が「絶望」を口にしているそのすぐ隣で、妻が「この人は幸せよ」と彼の人生を全肯定してしまうのだ。この、決して作為では脚本化しえぬ庶民の「原初の生命力」がいたるところに地雷のように埋まっているからこそ、『ニッポン国VS泉南石綿村』は一瞬も目を離すことができないのだ。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)