4月14日より公開されるファティ・アキン監督の最新作『女は二度決断する』では、理不尽に家族を奪われ、激しい怒りと憎しみに突き動かされる母親の姿が描かれています。本作の公開にちなみ、不慮の事故や事件によって最愛の我が子を失った母親たちによる「決断」を描いた作品を振り返ってみたいと思います。

あえて加害者に歩み寄ることで心の傷を癒やす『ラビット・ホール』

まず1本目は、4歳の息子が目の前で車に轢かれるという悲劇に見舞われた母親の決断を描いた『ラビット・ホール』(2010年)です。この映画を観ると、加害者に対する遺族の感情は、決して「憎しみ」や「恨み」だけではないことを痛感させられます。

というのも、ニコール・キッドマン演じる母親のベッカは、我が子の命を奪った加害者の少年と時々会って会話を交わすことで、徐々に心の傷を癒し、絶望の淵から這い上がるきっかけを掴むことになるからです。

監督を務めているのは『パーティで女の子に話しかけるには』(2017年)のジョン・キャメロン・ミッチェル。『セッション』(2014年)で一躍スターに躍り出たマイルズ・テラーが、加害者のティーンエイジャーを演じています。

「悲しみは消えない。でも、のしかかっていた大きな重い石が、いつかポケットの中の小石に変わる」。映画の終盤に登場するこの言葉は、きっと多くの人の心の琴線に触れることでしょう。

松たか子扮する中学校教師が、教え子をジワジワ追い詰める『告白』

つづく2本目は、“イヤミスの女王”湊かなえのベストセラー小説を、中島哲也監督が、松たか子主演で映画化した『告白』(2010年)です。その衝撃的な内容が賛否両論を呼び、2011年の日本アカデミー賞で4冠に輝きました。

ある中学校の終業式後の雑然としたホームルームで、松たか子扮する担任の森口悠子が教壇に立ち、「命」と黒板に記すと、静かな口調でこう語り始めます。「わたしの娘が死にました。でも事故死ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」。

娘がどんな状況で、なぜ命を落としたのか、その真相が森口から語られ、生徒たちを容赦なく追い詰めていきます。「たとえ法律で守られていても、わたしは絶対に許さない」という、母親の煮えたぎる執念が満ち溢れている本作。

「どんなにえげつないと責められようが、娘や自分が受けたのと同等の恐怖や苦しみを、犯人やその家族にも与えずにはいられない」そんな森口の姿を目の当たりにすると、最愛の娘を奪われた母には、もはや常識や倫理なんていうものは、一切通用しないのだということを十分すぎるほどに思い知らされるに違いありません。

森口が学校を去った後、いったい何が起きたのか。その顛末は生徒たちの虚実入り混じった「告白」によって明かされ、映画の最後には想像を絶する展開が待ち受けています。

ダイアン・クルーガーのリアルな感情がほとばしる『女は二度決断する』

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そして最後にご紹介するのが、トルコ系移民の夫と最愛の息子を爆弾テロで一度に失った母親・カティアの苦悩と決断を描いた『女は二度決断する』です。

世界三大映画祭を制したファティ・アキン監督が、実際に起きたネオナチによる連続テロ殺人事件に着想を得て映画化したという本作。人種差別による偏見で真実が歪められ、容疑者が裁判で正当な裁きを受けないことに業を煮やしたカティアが、容疑者の後を追って単身ギリシャに乗り込んでいく際の、鬼気迫る母の姿に圧倒されます。

カティアに扮したダイアン・クルーガーは、母国語(ドイツ語)による哀しみと激情をたぎらせたリアルな演技が高く評価され、第70回カンヌ国際映画祭で主演女優賞に輝きました。

撮影前、6ヵ月という時間をかけてテロや殺人事件の犠牲者となった30もの家族にみずから取材を行い、その経験が自身の「人生を変えた」とまで語るダイアン。彼女が身をもって感じた、犠牲者の家族の言葉にできないやるせなさや哀しみは、スクリーンに映し出されるカティアの眼差しや仕草を通じて、世界に再び発信されるのです。

綺麗ごとが通用しない世界で、人は、心の底から湧き上がる怒りや憎しみと、どう向き合い、どう決着をつけるのか。映画のなかで提示される結末に、戸惑いや反発を覚える人もいるかもしれません。でも、いつか憎しみの連鎖を断ち切るために、どういう選択が考えられるのか。映画を通じて想いを巡らせることにこそ、意味があると思うのです。

(文/渡邊玲子@アドバンスワークス)