孤独な男女が、同じ「鹿の夢」を見たことをきっかけに急接近していく姿を、静謐な映像で緊張感たっぷりに綴った異色のハンガリー映画『心と体と』(4月14日より公開)。昨年のベルリン国際映画祭で金熊賞を始め4冠に輝き、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされるなど、いま世界各国から大注目を集める新感覚のラブストーリーです。

一瞬にして現実に引き戻される映画冒頭の衝撃

雪が降りしきる森の中、2頭の大きな鹿が佇む印象的なシーンで幕を開ける本作。美しい旋律と映像が紡ぎ出す幻想的な世界に、一瞬にして引き込まれます。

そして、その直後に映し出されるのは、と殺の瞬間を静かに待つ牛の姿。映画の開始早々、観客は夢の中から一気に現実へと引き戻される感覚を、唐突に体感させられることになります。

物語の舞台となるのは、ハンガリーのブダペスト郊外にある食肉処理場。産休中の職員の代理で派遣され「品質検査官」として働き始めたマーリアは、堅物で一切融通が利かず、コミュニケーションが苦手。同僚からもかなりの変わり者とみなされています。一方、片手が不自由な上司のエンドレも、表向きは管理職として職場を仕切ってはいるものの、どこか人生に対してあきらめモード。新入りのマーリアを気にかけながらも、なかなか話がかみ合わず頭を悩ませています。

そんなある日、牛用の交尾薬が盗まれるという珍事件が発生し、犯人捜しのため、全従業員が精神分析医によるカウンセリングを受けることに。すると、偶然にもマーリアとエンドレが「鹿になって森の中をウロウロする」という、まったく同じ夢を共有していることが明らかになり、二人はそれをきっかけに交流を深めていきます。

2017 (C) INFORG - M&M FILM

新星女優&敏腕編集者、芸達者の鹿が醸し出すリアリティ

映画の冒頭では、鹿のシーンは幻想的なものとして映りますが、2頭の鹿が肉厚の葉っぱを探して森を歩き回ったり、小川で水を飲んでいるときに鼻先が触れ合ったりする映像を何度も目にするにつれ、実はこちらの世界こそが現実なのではないかと思うほどのリアルさをもって迫ってきます。この2頭の鹿は「オーディションで選ばれた後、専門のトレーナーのもとで訓練を積み、本番では台本通り役者顔負けの完璧な演技を披露した」と、イルディコー・エニェディ監督が明かしているから驚かされます。

一方、「夢の中では鹿になる」という難しい役どころにもかかわらず、マーリアとエンドレを説得力たっぷりに演じているのは、透明感あふれる期待の新星女優アレクサンドラ・ボルベーイと、有名出版社のベテラン編集者という異色の経歴を持つ演技未経験のゲーザ・モルチャーニ。劇中ほとんど表情を変えない彼らも、瞳はとても雄弁。言葉を交わさずとも通じ合える、夢の中の2頭の鹿の瞳と見事に重なります。

2017 (C) INFORG - M&M FILM

アキ・カウリスマキやロイ・アンダーソン作品にも通じるシュールなブラックユーモア

本作の見どころは、全てにおいてマイペースだったマーリアが、掃除のおばちゃんに男を落とすウォーキングの仕方を指導してもらったり、プレイモービルでエンドレとの会話を予習したり、ポルノ映画を見て学習したり、公園でいちゃつくカップルを観察したり……と、必死に自己改革に取り組む姿。ユーモラスで可愛らしくもありながら、あまりに切実すぎて胸を打たれます。

牛の頭が切り落とされる食肉処理の現場を目の当たりにして具合が悪くなった警官が、サーロインステーキをお土産にもらって帰るシーンなど、シュールなブラックユーモアが絶妙なバランスで散りばめられている点で、フィンランドの巨匠アキ・カウリスマキや『散歩する惑星』(2000年)のロイ・アンダーソンの作品を彷彿とさせます。でも、こんなにも淡々としながらも、まったく先が読めずにスリリングに感じられる映画には、これまで出会ったことがありません。

牛から滴り落ちる血や、白衣姿の職員のなかに配置される真っ赤な作業服など、この映画においては「赤」という色彩は、とても象徴的に使われています。それは、マーリアやエンドレに代表されるように、常にまわりから浮いてしまう異質の存在の象徴でもありながら、実は誰の中にも流れている血の色でもあるということを示しているようにも感じられます。そういった意味から、目に見えていても見えていなくても、“心と体”になんらかの生きづらさを抱えている人にとって、この映画は自身の存在を肯定する「救い」になりうる映画だと言えるでしょう。

(文/渡邊玲子@アドバンスワークス)