カンヌ国際映画祭グランプリ&国際映画批評家連盟賞を受賞、という華々しい冠だけでこの映画を観た人は、その激しさと深刻さに面食らったかもしれない。ゲイの女装パフォーマーとして、LGBTに関わる作品について語らせていただく機会も多い身だが、カンヌ審査員長を務め、ゲイであることを公言しているペドロ・アルモドバル監督の「素晴らしかった!最初から最後まで心を打たれた」という言葉をそのままなぞりたい。というか、打たれすぎて劇場を出た後もしばらく、体の奥でそのビート=鼓動が響き続けていた。

表面的な正しさや常識に基づく嫌悪感を浮き上がらせる

(c)Céline Nieszawer

90年代初めのパリを舞台に、HIV/エイズへの偏見と差別と闘う実在の団体「ACT UP Paris」を通して描かれる物語。公開してしばらく経ったのを言い訳に、ネタバレもありで想いを綴りたい。

まず、とくに日本では大半の観客が感じるであろう「ここまで過激なやり方を認めるべきか」という抵抗。形ばかりの公的会議や、認可を進めない製薬会社に乗り込み、血のりボールを投げつけるという強烈な抗議は、それだけで主人公たちへの嫌悪感にもつながる。

高校でのゲリラ的な直球の性教育や、麻薬患者への清潔な注射器の配布も、そうした活動への理解が進んだ現在でも受け付けない人は多いだろう。だが彼らにとってはその表面的な正しさや常識に基づく嫌悪感を浮き上がらせること自体も狙いだったはずだ。

(c)Céline Nieszawer

今でこそHIVは死の病ではなくなった。もちろん大変な病気ではあるが、検査で陽性を知り投薬を続けている人の多くは、定期的な薬の服用で日常生活をほぼ不自由なく送れる時代になっている。

だが、舞台となる90年代前半までは、エイズは未知の死病そのもの。セーファーセックスの知識も与えられず、当たり前のように性を楽しんだだけの人々が、痩せこけ、カポジ肉腫に冒された、見るも無残な姿になって死んでいく。キスをしても感染しないのに、恐怖心から感染者の隔離が口にされるほど忌み嫌われ、社会から悼まれることもなく孤独に葬られていく。ここに描かれているのは、そんな時代に生き、死んでいった者たちなのだ。

主人公のショーンは、まさに判断する知識などまるでない16歳のときに、既婚者の教師との初体験で感染してしまった。それでも彼は「セックスはお互いのものだから」と相手だけを責めることなく、死に直面した少数者を軽視する社会や次世代の若者のために闘ったのだ。

私たちに問い続ける「正しさとは何か」

(c)Céline Nieszawer

彼らの運動に重なるように感じたのが、昨年公開の映画『未来を花束にして』で描かれた、メリル・ストリープ演じるパンクハースト夫人が率いた選挙権を求める女性たち=サフラジェットだ。あくまで人ではなく物に対してだが、首相官邸に投石をしたり郵便ポストに爆弾を入れたり、テロリストとまで呼ばれた過激な運動を展開した女性たち。この作品でも「関係ない街のものを破壊する訴え方は正しいのだろうか」とまず思った。そして劇中の「50年ずっと正当に訴えてきた。それでも無視されるのだから仕方ない」という説明が重く響く。

実際のところ、こうした過激派団体よりはるかに多数が所属した穏健派の団体も当時からあったし、それはACT UP Parisも同じ。今作品でも他団体から過激な行動を非難される様子が描かれている。

たしかに四半世紀も前にゲイ雑誌のコラムで、海の向こうに血のりボールなどの過激な抗議を行うHIV団体があるという記事を読んだ自分も、否定的な感情を抱いたのを覚えている。女性参政権にしろHIV問題にしろ、社会運動の拡がりの中で最も際立った闘いがシンボリックにドラマ化されたが、いずれも当時は、より多数派の同胞からも否定されていた現実もあるのだ。

(c)Céline Nieszawer

だが、格差が残るとはいえ当たり前のように女性参政権があり、エイズが死に直結する病気ではなくなった現在の感覚で、彼らの闘いを簡単に断罪すべきだろうか。製薬会社の壁面が血だらけになる光景はショッキングだ。だが、その汚れは翌日にでも清掃業者が拭き取ってくれる。血のりは、程なく命を失う彼らの叫びそのものだった。短く濃縮された人生の中で彼らがあがいた傷跡は、私たちに「正しさとは何か」と問い続けるだろう。

社会との闘いは、体内でのウィルスとの闘いとシンクロし、リズムを刻むように、闘いと交互にセックスやダンスが描かれる。感染していない者との気遣い合うセックス、身を寄せ合った者たちが溶け合うダンス、病室での衝動的なセックス。感染者や病人を哀れみや綺麗ごとに押し込むことなく、生と性を鼓動が終わる瞬間までむさぼる彼らは人間そのものだ。

一人の鼓動は遅かれ早かれ、止まる時が来る

(c)Céline Nieszawer

ビート・パー・ミニットとは1分間の心拍数でもあり、音楽のテンポを表す言葉でもある。原題にはここに120という具体的な数字もくわわる。心拍数なら「頻脈」とも言われる興奮状態に近く、音楽なら90年代のゲイ・カルチャーと密接な関係のあるハウス・ミュージックの中心的なテンポだ。

劇中、自らの遺体を政治的に使って行進してほしいと願った青年は、1848年の労働者革命を引用した。一人の鼓動は遅かれ早かれ、止まる時が来る。だが、重なる想いがうねり合い、大きな響きとなることで社会は動いてきた。時代ごとに奏でられる旋律は変わるだろう。

監督は「今だからこそ、この物語を伝えたい」と言う。今を生きるあなたの中には、どんなビートが聴こえるだろう。それぞれの大切な想いにつながる、先人たちの鼓動のバトンは受け取っているだろうか。

「BPM ビート・パー・ミット」
2018年3月24日(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、ユーロスペースほか全国ロードショー
配給:ファントムフィルム
(c)Céline Nieszawer

(文・ブルボンヌ)