画壇の仙人と呼ばれ、少年のように無邪気に生きた画家の“モリ”こと熊谷守一が、妻や訪問客らと織りなす1日をユーモラスに描いた映画『モリのいる場所』(5月19日より公開)。本作は、スローライフな日々を過ごす熊谷を通して、世知辛い現代を生きる我々に、精神的な豊かさや本当の幸せとは何なのかを問いかけてくる、大人のファンタジー作品だ。

いつも以上に賑やかな熊谷家のとある1日をとらえる

舞台は、昭和49年の東京。山﨑努が扮する熊谷は94歳で、30年もの間、家の外には一歩も出ず、午前中に草木が生い茂った庭で動植物や石を観察し、深夜に絵を描く生活を続けていた。その傍には常人離れした熊谷の言動にもあっけらかんと構える妻の秀子(樹木希林)や、熊谷の姪で家事を手伝う騒々しい美恵がいる。

加えて熊谷の自宅には、熊谷を敬愛するカメラマンの藤田武、画商らが出入りする。気づくと誰だか全く分からない男が紛れていたりもする。

そんな熊谷家にある日、熊谷に看板の文字を書いてもらいたいと信州から旅館の主人がやって来る。さらに、近所に建設中のマンションのオーナーも訪れ、いつも以上に賑わう……本作では、そんな1日を映し出す。

(C)2017「モリのいる場所」製作委員会

アリは行動する時“左の2番目の足”から動かす…らしい

30年もの間、家の外に出ずに暮らすとはどういうことか。そして、絵の題材をどこに得るのか。常識では考えられないことだが、熊谷にはモチーフに事欠かない庭があり、彼は毎日、夏休みを田舎で過ごす少年が森で冒険をするように自然と対峙している。

果たしてその庭がどれくらいの大きさだったかは実際に映画を観て確認してほしいが、普通だったら有名な庭園でも2時間もいたら飽きてしまうもの。だが、彼は森羅万象に神が宿るかのように庭の全てに慈悲深く接し、同じ風景であっても機微を感じ取り、時にミクロな視点で物事をとらえる。

実際、ポスターやチラシにあるアリを凝視するシーンでは「最近、気づいたんだが、アリは行動する時、左の2番目の足から動かすんだ」と大真面目に発言している。スクリーンに大写しになったアリに集中してみても、本当にそうだかは全く分からなかったが……。

確かに、熊谷は画家としての類いまれな観察眼を持ち合わせているのかもしれない。とはいえ、日常でもちょっと視点を変えれば風景がいつもと変わって見えるのもまた事実だ。それこそこれからの季節、いつも通る道の木の枝は芽吹き、花々が咲き乱れる。さすがに熊谷には及ばないものの、一瞬立ち止まって見慣れた景色を見直してみると、あくせくした時間の中に日常を忘れるちょっとした和みのひと時が生まれるはずだ。

(C)2017「モリのいる場所」製作委員会

熊谷にとって本当の“モリのいる場所”とは秀子の掌の上!?

一方、本作で熊谷は、人間臭く愛嬌のあるキャラクターとしても描かれている。文化勲章の授賞を打診する電話には「これ以上、家に人が来るのは嫌だな。袴も履きたくないし……」と怒られた子供のようにしゅんとなり、せっかくの栄誉を断ってしまう。秀子も秀子で「そうですよね」と熊谷に同意し、「主人がいらないと申しております」とあっさり電話を切ってしまう。

そう、熊谷のいちばんの理解者であり、熊谷を世間と繋ぎ止めているのが秀子だ。彼女は熊谷の世話をするとともに客人の相手をし、時に彼を守るように面倒ごとの矢面にも立つ。その反面、画家としての領分には決して立ち入ろうとしない。

意外にも山﨑と樹木希林は今回が初共演だが、名優同士は初共演でも絆に裏打ちされた、付かず離れずといった塩梅の距離感を醸し出す。事実、先の文化勲章云々のシーン以外にも、秀子が素っ気なかったり、面白がって茶化したりすることで、クスッとなってしまう熊谷の言動、さらには人間的なチャーミングさがより浮き彫りになったりする。

誤解を恐れずに言うならば、熊谷にとって本当に“モリのいる場所”とは秀子の掌の上であり、だからこそ彼はずっと少年のままでいられたのではないだろうか。

だが、熊谷とて問題を抱えていないわけではない。差し迫っては家の前にマンションが建ち、庭に陽が当たらなくなること。さらに夫婦の間には、過去に悲しい出来事も起こっていた。

とはいえ、何があっても人間は死ぬまで生きていかなければならない。明日もまた熊谷は、今日と同じように秀子らと食事を取り、庭を散策し、自分にとっての日々を過ごす。その姿には飄々としながらも生に対する前向きさが息づき、映画を観た私たちを鼓舞する。

本作は、沖田修一監督が山﨑の演じる熊谷が見たいとシナリオを書いたことがそもそもの始まり。そして、山崎がその脚本に惚れ込み、約100分のほぼ全てを熊谷家の庭と家で進行するノスタルジックで温かい雰囲気の作品となった。人生に迷った時、改めて観たい映画である。

(文/兒玉常利@アドバンスワークス)