今年3月末に公開された『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』に続いて、はやくもスティーヴン・スピルバーグ監督の新作『レディ・プレイヤー1』が4月20日より公開される。スピルバーグの監督作の公開が続くこのタイミングで、彼のフィルモグラフィを振り返ってみたい。

娯楽とシリアス。そして、SF

世界映画史屈指のヒットメイカーであるスピルバーグには『インディ・ジョーンズ』シリーズなどに代表されるエンターテインメント作品の一方で、『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』へと連なる史実を扱ったシリアスな作品群がある。

『太陽の帝国』(1987年)や『ミュンヘン』(2005年)、『リンカーン』(2012年)などがそれであり、『シンドラーのリスト』(1993年)はその代表格と言えるだろう。『カラーパープル』(1985年)や『プライベート・ライアン』(1998年)は歴史的背景のあるフィクションだが、やはり同じ流れにある。

そして、スピルバーグのフィルモグラフィを語る上で欠かせないのが、『ジュラシック・パーク』シリーズなどをはじめとする、SF映画。SFは、娯楽性=視覚的な想像力と、社会的なテーマをも兼ね備えたジャンルであり、『レディ・プレイヤー1』はその最新作である。

スピルバーグが描く、様々な「家庭環境」

スピルバーグにとって最初のSFは、彼が自らオリジナル脚本を執筆した『未知との遭遇』(1977年)だった。タイトル通り、ここでは異星人と人類とのコンタクトがクライマックスとなるが、そこに至るまでの人間ドラマを見つめると、彼が「疎外された人々」のことを描いていることが明らかになる。

取り憑かれたように宇宙船の目撃情報を収集し始める主人公の中年男性は、家庭が崩壊していたし、もう一方の軸として描かれる、宇宙人に息子を連れ去られた女性はシングルマザーであった。

あたかもシャンデリアのようにきらめきながら登場する宇宙船は、映画的な視覚効果に満ちている。しかし同時に、スピルバーグは「不完全な家庭」も描きつつ、彼ら彼女らの渇望のメタファーとしても異星人との接近遭遇を映し出している。

彼の代表作のひとつでもある『E.T.』(1982年)もまた、単なる「泣けるファンタジー」ではない。異星人と友好的な関係を結ぶ主人公の少年は、孤独な存在であり、その孤立した魂のありようがE.T.との交流によって浮き彫りになる。

彼の両親はうまくいっておらず、いずれ離婚するかもしれない危険性を漂わせている。ここでも「不完全な家庭」がさり気なくバックボーンにあり、そうした不安があるからこそ、この映画はエモーショナルなクライマックスにたどり着くことができるのだ。

「代用品」と「孤独な少年」

映画史におけるSFの、突出した最高峰『2001年宇宙の旅』(1968年)で知られるスタンリー・キューブリックの原案を基に作り上げられた『A.I.』(2001年)は、スピルバーグが追求してきた様々なテーマがアクロバティックに交錯し、乱舞する意欲作だ。

「少年」、「不完全な家庭」、そして「疎外された人々」というモチーフが、まさにSFと言うより他はない世界の中に結実している。もはやロボットが珍しくない未来を舞台に、少年型ロボット、デイビッドの悲劇が描かれる。実の息子が不治の病に冒されている夫婦のもとに、彼らの愛情を向ける「肩代わり」として送り込まれたデイビッドは、実の息子が奇跡の生還を果たしたことによって「用なし」とされ、棄てられてしまう。

「孤児」は、スピルバーグ作品を紐解く重要な視点だが(『E.T.』の主人公もまた精神的な孤児であった)、『A.I.』のデイビッドはまさに生まれながらの孤児であった。なぜなら、ロボットには、そもそも親はいないからである。

人間たちの身勝手な「愛情を収めるための器」として設計されたデイビッド。彼は母の愛情というものを知ってしまったがゆえに、最後までそれを渇望し続ける。棄てられた後は、ジゴロ型ロボットと出逢い、流転の旅を続けることになるが、ジゴロ型ロボットもまた、人間にとって現実のラブアフェアの「代用品」であり、いずれは棄てられる運命にある。

人間たちに奉仕しながら、やがてはゴミとして消費されるロボットたち。『A.I.』は、アウトサイダーの孤立した魂と、その渇望を余すことなく描いてきたスピルバーグの集大成と言えるだろう。

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『レディ・プレイヤー1』は荒廃した未来社会を舞台に、VRだけが生きる拠りどころとなっている若者たちの「架空の冒険」を描いている。

スピルバーグのSF作品が常にそうであるように、ここでも映画的視覚効果はダイナミックに展開されており、それらはスクリーンで体感すべきものになっている。だが、主人公である17歳の少年の心象を鑑みれば、ここで可視化される冒険は、「不完全な現実」を生きる「疎外された」人間の渇望の「肩代わり」であることは間違いない。スピルバーグはここで、そんな「代用品」としての虚構の「仮想現実」も、現実の荒れ果てた世界のありようも、同時に肯定し、悩める日常を生きるすべての人々を抱擁している。

間も無く公開される『レディ・プレイヤー1』は、SNSでかりそめの自己を演じているわたしたち全員にとって、切実な示唆に富んだ一作である。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)