松坂桃李の勢いが止まらない。『ユリゴコロ』(2017年)、『彼女がその名を知らない鳥たち』(2017年)、『不能犯』、『娼年』(ともに現在公開中)、そして『孤狼の血』(5月12日より公開)と、映画だけでもこの8ヵ月で5本も出演作が公開される。松坂は主演はもちろん、汚れ役と言っていい脇役も無理なくこなす。一生懸命熱演というよりは、涼しい顔で、健やかにキャリアを積んでいる風情があり、実に頼もしい。それにしても、彼はどうしてここまで映画に愛されるようになったのだろうか。

役のテリトリーを拡張する「人格温度」

まず、松坂桃李にはさわやかな好青年役がしっくりくる。

パブリックイメージもそうだと思うが、筆者が何度かインタビューした限り、実像もまた好青年そのものだ。さわやかさに嘘がない。そして、ブレがない。老若男女問わず、彼には好感を抱くに違いない。

だが、それだけのイケメンなら芸能界には数多くいる。では、松坂の抜きん出た個性とは何なのか。ガツガツしていない、という点は重要だと思われる。人当たりはいいが、過剰な愛想の良さがあるわけではなく、どこか受け身でしなやかなのだ。

たとえば、ひとつの質問に対して、彼なりに努力して答えようとする様に、嫌味がない。「僕、頑張ってます」という雰囲気は、本人が自覚しているにせよ無意識にせよ、漂わせてしまう人は漂わせてしまうものだが、松坂にはそれがない。かといって、“なんでもスムーズに応じられます”というような、つまらない優等生タイプでもない。つまり、熱いわけでも、こなれているわけでもない、ちょうどいい温度感なのだ。

貪欲さからも、クールネスからも、結果的に離れているその人格温度は、逆に言えば、役のテリトリーが広く深いということにもつながる。極端な「わかりやすさ」がないからこそ、キャスティングする側は、彼にいろんな役をやらせてみようと思うのではないだろうか。

松坂桃李から想起される「綺麗な水」

『彼女がその名を知らない鳥たち』では世にもゲスでクズな男を演じ、驚かせた。だが、そこで個性派に転ぶわけではなく、『娼年』では性行為がメインとなる世界観に無理なくおさまりながら、持ち前のさわやかさを浮き彫りにする技を発揮した。

汚れ役をやっても、ほんとうの意味でのイメージが崩れないというのは、松坂桃李の得難い性質の一つではないだろうか。逆に言えば、一回一回役を全うしているから、残留物が何もなく、すべて灰になってどこかに飛んでいってしまう。そんな潔さがある。先日筆者が久しぶりにインタビューした際、彼に「綺麗な水」を想起したのも、そこに関係しているのかもしれない。様々な役を演じて渦が巻き起こるが、演じ終えると渦は納まり「澄んだ水」に戻る俳優。

そう、松坂桃李には、出演作を観るたびに、真新しさを感じる。その都度リセットして、ゼロからスタートしているからではないだろうか。さわやかさ、すがすがしさを超えた「気持ちの良さ」がある。

『日本のいちばん長い日』(2015年)に続いて役所広司と再共演した『孤狼の血』の松坂には、初々しさと骨太さが同時にある。イヤな奴、チャラい奴、エロい奴、ズルい奴など、アウトサイドを生きるキャラクター群を地道に体現してきたからこそ生まれた骨太さを滲ませながら、一方で、彼の魅力のひとつでもある「永遠の後輩キャラ」をキープし、それらを両立させること。

しかも狙ったふうなところがまるでなく、気がついたらこうなりました、という印象がある。役所扮する荒くれ刑事の懐深さに惹かれながら、彼の過去を暴こうとする新人刑事の熱情と屈折と素直さが、ごく自然に浮き彫りになる。語り部としての役割を全うしながら、複雑な心情を伝える芝居は明瞭で、後腐れがなく、刑事とヤクザとがバトルロイヤルを繰り広げるワイルド極まりない男たちの世界にしっくりハマる。

演者の、悪い意味での自己主張がないことも「澄んだ水」に通ずるものがある。これ見よがしな態度とは無縁なまま、作り手からの要求にひたむきに応え、確かな存在感を発揮していく。

(C)2018「孤狼の血」製作委員会

育ちが良いということは、こと表現の世界においては無個性にもつながる危険があるが、松坂桃李は持ち前の上品さが、功を奏しているのだろう。作り手も観客も、この「綺麗な水」をかき混ぜたくなるのだ。その「水」は渦を巻き、水しぶきをあげ、飛沫にこちらの顔面が濡れることもあるが、ちっともイヤな気はしない。そうして、いつのまにかそれは元どおりの「綺麗な水」に戻っている。わたしたちは、それを知っているからこそ、松坂桃李に、また次も逢いたくなるのだ。映画を通して。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)