『ダリダ〜あまい囁き〜』(5月19日より公開)は1960年代から80年代にかけてフランスの華麗なる歌姫として君臨したダリダの生涯を描いた音楽伝記映画である。

個人的に彼女の歌に初めて接したのは1970年代半ば。自分が小学校4年生くらいの頃、彼女がアラン・ドロンとデュエットして世界的ヒットとなった《あまい囁き》がラジオから聞こえてきたときだ。

当時まだ“性の目覚め”などという言葉も知らなければ、認識すらしたこともなかった時期にも関わらず、どこか淫靡で魅惑的な大人の声のエロティシズムな響きに、生まれて初めて体の芯がとろけてしまいそうな感覚を呼び起こされた気分にさせられたものだ。

ちなみに《あまい囁き》を聞きながら、幼心にも直感でこの二人は恋人同士に違いない! などと勝手に妄信したものだったが、劇中には二人のスキャンダルが報じられたことを知ったダリダが呆れ返るシーンが出てくる。つまりはただのスキャンダルだったということか?

(でもあの歌だけ聞くと、絶対に大人の関係があっておかしくないと匂わせるほどのインパクトを、今でも受けてしまう……)

華やかになればなるほど深くなる人生の心の影

(C)2017 BETHSABEE MUCHO-PATHE PRODUCTION-TF1 FILMS PRODUCTION-JOUROR CINEMA

さて、その映画『ダリダ〜あまい囁き〜』だが、1933年に生まれたダリダが、1987年に54歳で自ら命を絶つまでの歌と恋に情熱をかけた人生が華麗に綴られている。いわゆる恋多き、スキャンダラスな歌手の激動の人生といったテイストではあるが、彼女の実弟でマネージャーも務めていたブルーノが全面的に協力していることもあってか、その内面の苦悩を前面に押し出した作りになっているあたりも好感が持てるところだ。

興味深いのはその幼少期、眼鏡を必須としていたことで周囲のイジメに遭い、容姿にコンプレックスを抱いていたことや、優しかったバイオリン奏者の父が第2次世界大戦中に逮捕され、釈放後は人が変わったように荒れ果てて早逝したことなどが描かれることであろう。

こういった事象が実は彼女の深いトラウマとなり、大人になって華やかに成功すればするほど心の影も深まっていくという、人生の皮肉な仕組みが見事に訴えられている。

映画の前半はそんなダリダが歌手として栄光の階段を上りつつ、不倫や妊娠中絶、元夫の自殺といった人生のトラブルによって幾度も挫折を味わっていくさまがドラマティックに描かれていく。

(C)2017 BETHSABEE MUCHO-PATHE PRODUCTION-TF1 FILMS PRODUCTION-JOUROR CINEMA

しかし、時代が1970年代あたりにさしかかると徐々にミュージック・クリップみたいに彼女の歌を強調させながら、ドラマを盛り込む趣向へ移行していくのも興味深い。

アラン・ドロンとの共演を経て世界的名声を獲得していく70年代前半から、ディスコ・ブームに乗せて持ち歌の雰囲気がアップビートに変わっていく70年代後半、そして80年代に入るとアメリカ・カーネギー・ホールでの公演も大成功となる。

もっとも、映画を冒頭から見続けてきた観客としては、その華やかさが高まれば高まるほどに、彼女の心がいつ壊れてしまうのかといった不安にさいなまされてしまう。後の彼女の運命は周知の事実でもあるから、なおさらだ。

もはや明かされる必要性もない。ダリダの最後の選択、その理由

ダリダ本人の姿を捉えた当時の写真
(C)2017 BETHSABEE MUCHO-PATHE PRODUCTION-TF1 FILMS PRODUCTION-JOUROR CINEMA

本作では1987年5月3日、ダリダの最後の“選択”に対して、明確な理由は提示されない。

むしろ印象的なのはその前夜、ダリダが周囲の者たちへ寄せる、さりげなくも優しい気配りの数々であり、そこをさりげなくも提示することで、既に達観されたと思しき彼女の心の哀しみを、より深く訴えることに成功している。

だから観る側も彼女の死の理由を改めて問いただそうと思うことなく、ただ愛の渇望がもたらす孤独の連鎖にため息をつきながら、人生とは常に運命との対峙を望みつつ、実は翻弄されるのみなのか? といった心境に陥らされるのである。

(C)2017 BETHSABEE MUCHO-PATHE PRODUCTION-TF1 FILMS PRODUCTION-JOUROR CINEMA

ダリダに扮したスヴェヴァ・アルヴィティが素晴らしい。その美貌と風格は、こちらがテレビやラジオ、そしてレコードのジャケットなどから憧れ続けてきたダリダの華やかさそのものである。

一方では、その奥から滲み出る愛の渇望や心の切ない彷徨などが、自由でアダルティックな恋の情熱を歌いあげる数々の歌曲と、巧みな対比にも成り得ている。

50年代から80年代までの移り変わりをファッションの推移で見せていく趣向も、このゴージャスな彼女の資質に見合ったものであろう。

監督・脚本のリサ・アズエロスは、歌手であり、『太陽がいっぱい』(1960年)でアラン・ドロンとも共演したマリー・ラフォレの愛娘ということもあってか、当時のフランスの、ショー・ビジネスの雰囲気を肌で体得していた人生のキャリアが、ここで大いに役立っているようにも感じられる。

また、そんな彼女だからこそ過剰に思い入れすることもなく、すこし遠くから引いた冷静な目線でダリダの人生を見据えることもできたのだろう。

(文・増當竜也)