ものまねタレント・コロッケが本名の滝川広志名義で葬儀社のベテラン社員を演じる、ヒューマンドラマ『ゆずりは』(6月16日より公開)。さまざまな人の死に方、そしてそれに関わる人々の感情を丁寧に描いた本作から、身近な人の死との向き合い方、ひいては人生について考えてみる。

主人公は“死”に対して感情の起伏を失ってしまった葬儀社の男

滝川が演じる主人公の水島正二は、葬儀中のハプニングにも冷静沈着に対応できる有能さがある一方、“死”に対して無感情になっていた。

自分が子供を授かれない体であることを知って自暴自棄となり、夫婦間に溝ができた中で妻の直子が自殺した過去を持つ水島。状況を見かねた亡き妻の父親が、自身が経営する葬儀社に水島を入社させ、その後、水島は表面的に立ち直ることができた。しかし、“直子の死”と“仕事で接する死”との間で、心はアンバランスになっていた。

そんな中、水島の前に現れたのが、新入社員の高梨歩だ。彼は、葬儀の裏方としての仕事を逸脱してまで遺族の思いに寄り添おうとする。最初こそ水島は高梨の教育係として振り回されるものの、素直に遺族の懐に飛び込んでいく彼に接するうちに、死に対する生身の感情を取り戻し、直子の自殺とも向き合えるようになっていく。

(C)「ゆずりは」製作委員会

人は生まれたら必ず死ぬ。だが、その結末はさまざま

今作にはこんなシーンがある。長年連れ添った視覚障害者の夫を亡くした老婦人が、高梨に夫との思い出を語る中で、夫に「君と出会ったことで黒しか色を知らなかった自分が、ピンクと青を知った」と言われたという場面だ。夫にとって彼女と会っている時の幸せな気持ちがピンク色で、会えない時の寂しさが青色だったということだ。

そして老婦人は「旦那さんの目になるために結婚したんですか」という高梨の不躾な質問に対して、「好きだったから一緒になったのよ」と涼やかに微笑む。劇中に具体的な老夫婦の回想シーンはないが、彼女と高梨のこの会話だけで夫婦の絆の深さ、さらには二人が満ち足りた生涯を送ったことは十分に伝わってくる。

しかし、この映画で見送られるのは、必ずしも幸せに生涯を送られた人ばかりではない。いじめを苦に自殺した女子中学生や、幼くして交通事故死した少年の葬儀もあり、ここでも高梨の言動は遺族の心の慰めとなる。

高梨とは対照的に、水島が葬儀でどこまでも裏方に徹しようとするのは、かつての失敗も大きく関係している。葬儀社に務めて間もない頃、父親を亡くした少年に思わず「頑張れよ」と声をかけ、傷つけてしまった過去があるのだ。

(C)「ゆずりは」製作委員会

対象を観察して作り上げる、きめ細やかな役作り

劇中でふざけたり笑ったりすることのない水島を、滝川は“芸人のコロッケでは役にふさわしくない”と、本名で演じている。

とはいえ、朴訥な演技からは、対象を観察して客観的な視点で笑いへと昇華する、ものまねタレントとしてのきめ細やかな役作りが見て取れる。

例えば、お坊さんが控え室で発作を起こした際に、部下に指示を出す沈着冷静さと、自宅で人生を悲観しながらうなだれて酒を飲む姿のギャップには、水島自身が抱える葛藤の大きさが見て取れるようで、胸に迫ってくる。

また、いじめを苦に自殺した女子中学生の葬儀で、遊び半分な参列者の態度には感情的な表情をみせる。死者、そして遺族への想いという、今まで抑えてきた意識が決壊していく過程を表情の変化だけで伝えていくのだ。

エンターテインメントの世界で活躍を続けるコロッケこと滝川。これまで“演じる”ことの試行錯誤を繰り返してきた彼だからこそ到達した、ある種の“深み”が水島のキャラクターからは感じられる。

(C)「ゆずりは」製作委員会

人の生死をハートウォームに描いた佳作

“ゆずりは”は春に若葉が枝先に生えた後、前年の葉が新しい葉に場所を譲るように落葉することから名付けられた常緑高木。その様子から家が代々続いていくことに見立てた縁起物である。そしてこの映画で意味するところの“ゆずりは”は、実際に劇場に足を運んで確認していただきたい。

人の生死をハートウォームに描いた余韻の中、大切な人のことを考えたくなる佳作だ。ちなみに、自分も友人が事故で亡くなって10年以上が経つ。そしてその死を受け入れる中で、彼が生きることのできなかった今日を前向きに生き、納得した一生を全うしたいと思うようにもなった。

全編約110分に渡って、さまざまな人の死に方、そしてそれに関わる人々の感情が丁寧に描かれている本作。観終わった後には、普段ならば考えもしない身近な人との関係性を考えたりもするだろう。さらには、自分が生きた証しとして、この世に何を残せるかも考えるかもしれない。まずは日々を精一杯生きることから始めたい。

(文/兒玉常利@アドバンスワークス)