1973年9月20日、全世界で9,000万人がテレビに釘付けになったテニスマッチがありました。それは、女子テニス世界チャンピオンのビリー・ジーン・キングと、元男子チャンピオンのボビー・リッグスの「バトル・オブ・ザ・セクシーズ(性差を超えた戦い)」。“男性が女性よりも優位なことを世間へ証明するため”に、ボビーがビリー・ジーンに挑んだ戦いです。

この実話を忠実に映画化した『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』が7月6日(金)に公開されます。

エマ・ストーンがビリー・ジーンを、スティーブ・カレルがボビーを、本人そっくりの外見やテニスプレーで熱演し、男女同権運動のほかにも、当時タブーだった同性愛をも浮き彫りにした話題作。今回は、本作をより深く理解するためにも、映画で描かれていないビリー・ジーン・キングのトリビアを4つご紹介します。

本当は野球選手になりたかった!?

アメリカが誇る「センターコートの女王」、ビリー・ジーン・キング。ウィンブルドン最多優勝の20回、そして、世界4大大会(全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープン)のシングルス、ダブルス、混合ダブルスを合わせて39回も制したという驚異的な記録の持ち主。1960年代から1980年代前半まで、テニス界に君臨した存在です。

劇中で明らかになりますが、いまある“女子テニス協会(WTA)”を設立したのもビリー・ジーン。全米テニス協会が決めた次期大会の女子の優勝賞金が、男子の1/8だったことから、男女格差を是正するために、全米テニス協会を離脱して女子テニス協会を立ち上げ、男子と同等の賞金を女子に提供しようとしました。

そんなビリー・ジーンがテニスを始めたのは11歳の頃。しかし、彼女が本当になりたかったのは野球選手だったのだとか! 8歳か9歳のときに野球の虜になったビリー・ジーンは、女子が野球をプレイできるのはリトルリーグまでだと、幼いながらに気づきます。そこで始めたのがテニスだったのだそう。

始めたときからテニスプレーヤーとして頭角を現しましたが、ビリー・ジーンはジュニアテニス界でも、自分が場違いだと感じていました。なぜなら、彼女だけが労働者階級出身だったから。

1950年代半ばの時代は、テニスはカントリークラブで行われるスポーツだったので、クラブのメンバーのほとんどが上流階級。消防士の父と専業主婦の母をもつビリーは、小さな頃はテニスウェアを買うお金もなく、クラブの集合撮影のときにもテニスウェアを着ていないことが理由で、撮影に入れてもらえなかったという苦い思い出もありました。

大学でスポーツ奨学金がもらえなかった!?

すでに世界的な女子テニス選手としてその名を轟かせていたのにも関わらず、通っていたカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(California State University, Los Angels)から、スポーツ奨学金がもらえなかったビリー・ジーン。

一方、大学の同級生でビリーの夫となったラリーは、カントリークラブでプレーする程度のテニス選手なのに、授業料から生活費までを含む奨学金を支給されていました。ビリーが大学に通っていた1960年代には、女子のためのスポーツ奨学金はなかったのです。

夫のラリーはテニストーナメントのプロモーター

映画で見るラリー(オースティン・ストウェル)とビリー・ジーンの関係は謎めいています。ビリー・ジーンのテニスツアーに、重要な試合以外はついて来ないラリー。これは、テニス選手の夫としては珍しいことだったのだとか。

当時、選手の夫の多くは、“主夫”として妻のツアーについてくるものでした。しかし、ラリーにはテニストーナメントのプロモーターとしての仕事がありました。たまにビリー・ジーンがラリーのテニストーナメントに出場するときも、あえて別の部屋を取り、仕事とプライベートを混同しないようにしていたそう。

ビリー・ジーンの自伝によると、一度だけツアーに同行したラリーが彼女について回ることに耐えられなかったこと、そして、ビリー・ジーンもラリーが彼女の側で仕事をすることに耐えられなかったことが、2人が距離を置いた理由だったのだとか。

悲劇に終わったマリリンとの恋

ボビーとのテニスマッチに並行して、ビリー・ジーンとマリリンのラブストーリーが軸の本作。このとき、彼女はラリーと結婚しており、マリリンは初めての同性の恋人でした。

「彼女が相手だと何もかも実に気楽で単純明快だった。それ以外の私の生活とはまるで違っていた。彼女はスポーツのことは何一つ知りもしなかった」とビリー・ジーンが言うように(※1)、マリリンはビリー・ジーンが素のままでいられた相手。映画では描かれていませんが、2人には悲しい後日談があります。

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」の約1年後に、ビリー・ジーンはマリリンの元を去りましたが、マリリンはビリー・ジーンのマリブの家から出て行こうとはしませんでした。しばらくして、ビリー・ジーンがマリリンに立ち退くように要請すると、マリリンはなんと訴訟を起こしたのです! マリリンを経済的に一生面倒みる、その上、マリリンはマリブの家にいつまでもいてもよいと、ビリー・ジーンが約束したというのが理由。

女性が同性の恋人に扶養義務の不履行で訴えられるのは、この時代、前代未聞。しかも、ビリー・ジーンは既婚です。当然、一大スキャンダルとなり、彼女は記者会見でマリリンとの仲を認めましたが、訴訟はビリー・ジーンの勝利に終わりました。

ところが、訴訟後の同じ年に、マリリンはマリブの家のバルコニーから飛び降り自殺未遂を図ったのです。その結果、半身不随に陥りました。(※2)数年後、ビリー・ジーンとラリーは離婚しましたが、2人はずっと親友だといいます。

ビリー・ジーンにはその後、生涯のパートナーができました。元プロテニスプレーヤーのイラナ・クロスという女性です。現在2人はエルトン・ジョン・エイズ基金を始め様々な人道的活動やスポーツ啓蒙活動を行うとともに、ゲイ・アスリートのアイコンとしても活躍しています。

少女の頃から男女格差や経済格差に直面してきたビリー・ジーン・キング。だからこそ、女子テニス協会を立ち上げるという快挙を成し遂げ、ボビー・リッグスの挑戦を真正面から受け止めることができたのです。彼女は「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」をこう振り返ります。「もし、私が勝たなかったら、私たち女性は50年後退してしまう。女子テニスのツアーどころか、すべての女性の自信にも影響することになると思ったのです」(※3)
ひとりの女性がすべての女性のために戦った「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」。45年たったいまも女性差別やLGBTQ差別は存在します。ビリー・ジーンの戦いを、私たち一人ひとりが引き継いでいかなかければならない――そんな気持ちがこみ上げてくる作品です。

(文:此花さくや)

【出典】
※1…新潮文庫『センターコートの女王』キング夫人/中野圭二訳
※2…Billie Jean King Admits Past Homosexual Affair – The Washington Post
※3…How Billie Jean King won the Battle of the Sexes & met her true love – Sunday Times