第二次大戦前後の広島、呉を舞台に、絵を描くことが大好きなのんびりやの女性が、嫁いだ家で戸惑いながら生きていく姿を、激化する戦況とともに描く、こうの史代の同名漫画のドラマ化。脚本は岡田惠和、音楽は久石譲、演出は土井裕泰、吉田健が担当。3000名の応募者の中から選ばれた松本穂香がヒロイン・すずを、夫となる周作を松坂桃李が演じる。本コラムでは、このドラマで描かれようとしているものはなにか? 物語に深く潜り込んで、その核に迫り、分析してみたい。

 

文=相田冬二/Avanti Press

日曜劇場「この世界の片隅に」(TBS系)第2回、冒頭の約7分ほどで涙がこぼれた。

北條すず(松本穂香)と、刈谷幸子(伊藤沙莉)。すずにとっては出逢いだが、幸子にとっては対峙である。なにしろ、幸子が幼いころからずっと恋焦がれてきた北條周作(松坂桃李)の許に嫁いできた「ぱっとしない」嫁がすずだからである。

北條すず役の松本穂香(左)と刈谷幸子役の伊藤沙莉(右)
「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

いきなり対戦ムードになる幸子。映画『パンとバスと2度目の初恋』(2018年)や9月公開の『寝ても覚めても』でも強烈なインパクトで画面をさらっている伊藤沙莉ならではの容赦ない早口が、画面を活気づかせる。

まくしたてる幸子に対してさほどひるむことなく、あくまでもマイペースできょとんとしているすずのありようが、はやくもこのドラマのひとつの美徳をあらわにする。

生きるスピードが異なる二人が意味するのは?

登場人物誰のことも断罪しない脚本家、岡田惠和が幸子を単なるヒールにするはずもない。そもそも第1話で、すず(は気づいていないが)をじっと睨みつけていた幸子の理屈を越えた一途さをわたしたちは既に目にしている。

幸子は陰でこそこそ意地悪をたくらむような卑劣なキャラクターではない。どんなにそれが一方的なアプローチであろうが、正々堂々、ぶつかってはくるのだ。つまりは、スジは通す女。もちろん、すずは幸子が貫く潔さなど知る由もない。

「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

だが、このズレこそがすばらしい。

幸子の生きるスピードと、すずが生きるスピードは違う。性格や背景が異なる以上に、生の速度がすれ違っていることが、この一見ファニーに映るシークエンスにはしっかり宿っている。言葉遣いの強度とスローモーさはあくまでも表出されただけのことに過ぎず、ここで示されているのは、すずと幸子は「別の人間」だという真実である。

つまりは、他者に出逢うこと。これが、本作の主題のひとつなのではないか。

このエピソードの終わり際は、幸子の気風のいい優しい一言で締めくくられるが、その言葉を耳にする前に、わたしの涙腺は決壊していた。みんな違って、みんないい。それが、当たり前のすこやかさで肯定されていたからである。そうして、タイトルが浮かび上がる。

「この世界」――そう、わたしたちは、いまも、こんな世界の片隅に生きている。

“演出”によって表現される愛おしさ

土井裕泰の演出は相変わらず揺るぎがない。丁寧に、しかし、いささかもくどくならずに、人々の暮らしと営みを見つめぬく。奇をてらわず、一歩ずつ一歩ずつ「この世界」に接近していく。だが気がつけば、その地道さがいつの間にか、「この世界」と共にあるための、もっとも愛おしいショートカットになっている。普通に見える非凡。いや、決して非凡には見せない普遍が、このドラマには無数に埋め込まれている。

第2回ですずは、周作との出逢いを想い出す。想い出して、故郷から嫁ぎ先へと走って帰る。「迎えに行くつもりだった」と語る周作を前にして、「だったら待ってればよかった」とつぶやきながらも、ミルクキャラメルの想い出をすぐには共有しようとしない。ひょっとしたら、これから先、ずっと胸にしまっておくのかもしれない。

「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

なんという強烈なロマンティシズムだろう!

周作にしてみたら、自分の想いが届いたことを実感したいかもしれない。だが、周作はそれを強要はしない。いつか想い出してくれればいいと思っている。いや、これからすずが想い出すことがなくても、それはそれでいいとすら思っているのではないか。惚れたのはおれだ。そんな、覚悟と矜持が、あらゆるマッチョイズムから距離を置いた場所で、静かに脈打っている。松坂桃李の澄みきった、ときに真空を思わせもする存在感が周作のフォルムに説得力を与えている。

「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

気づいたよ、わたし、気づいたよ。別な女性なら、息をはずませて、周作に想いのたけを伝えるかもしれない。だが、すずはそうしない。そうできなかっただけかもしれない。そうするタイミングに恵まれなかったのかもしれない。しかし、この物語は、あの日「伝えられなかった」ことをいささかも恥じることのない筆致で紡ぐ。

想いは、必ずしも、伝わりきらなくてもいいのかもしれない。それぞれが、それぞれの生きるスピードで、それぞれの想いを抱えもつことができれば、それでいいのかもしれない。

すずと周作の姿は、それぞれ「投函されなかった手紙」を胸に秘めているようにも思える。すずが手紙を書いても兄からの返事はないという挿話が、この浪漫を別な角度から照射しているようにも思える。

実写ドラマ「この世界」で描かれるのは現代性?

「ぼーっとしている」と周囲の人々に形容されるすずは、けれども、決してシャイなわけではない。

「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

他者ばかりのアウェイな場所で、彼女なりに、しぶとく、しなやかに、生きている。誰かに合わせているわけではない。彼女は彼女のスピードを決して崩さない。疲れきって、頭にハゲができるほどストレスを蓄積させながら、それでも、彼女は彼女であることを諦めてはいない。

誰かに、というより、「この世界」に必要とされることを享受しようとする意志が、無意識の中にある。そのありようを、松本穂香は、身じろぎもせずやんわりと、かたちにしている。大げさなところはない。天然、の一言で済まされるかもしれないさり気なさで、彼女はすずの「不滅の魂」を唯物化している。

漫画やアニメーションを知っているひとであれば、これから先、すずの身の上になにが起きるかを知っている。だからこそ、すずや周作や幸子たちの「ささやかだけれど確かなこと」が、「この世界」の地盤を形成していることがいかにかけがえのないことであるかを実感もするだろう。

これは、戦時中を描いている作品かもしれないが、わたしには現代のある局面を独自の視点でスライスしたものに映る。そして、この現代性は、漫画やアニメーションからは感じられなかったものでもある。

「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

パートナーも、家族も、実は他者なのだ、という現実が、ドライではないタッチで抽出されている点は見逃せない。すずの母はすずのことがよくわからないと正直にすずに伝える。親子だからわかりあえる、という安直な 「絆」礼賛がここにはない。よくわからないけれど、いや、よくわからないからこそ、優しくもできる。そんな描写はきわめて21世紀的だと思うのだ。

そして、周作もまたすずにとっては、圧倒的な他者である。つまり、よくわからない人物だ。周作の母ですら、よくわからないと口にする。

他者ばかりの世界で自分らしく生きること

恋愛やお見合いなどのプロセスを経ずに「嫁ぐ」という現象は、女性が主体性を奪われていると感じるかもしれない。だが、このドラマを見つめていると、こうも思うのだ。

「この世界の片隅に」毎週日曜よる9時
(C)TBS

恋人に出逢うことも、友だちができることも、働くことも、見ず知らずの人たちと家族を形成することも、なにかを学ぶことも、なにかを知ることも、すべて「この世界に嫁ぐ」ことなのではないか。

性別は関係ない。他者ばかりの、違和ばかりの「この世界」で、それでも自分らしく生きるとはどういうことか。連続ドラマ「この世界の片隅に」は、その実践的なテキストであると思う。

わたしたちはいま、あまりにも主観的に生き過ぎている。「嫁ぐ」感覚とは、たとえば、進学したとき、郷里から離れたとき、ひとり暮らしを始めたとき、ひとり旅を体験したとき、海外を訪れたとき、留学したとき、どこかで迷子になったときなどに共通するアウェイ=異郷の中に入っていくことでもある。

「この世界に嫁ぐこと」。その行方を、最後までしっかり見届けたい。