どんな作品でも起こる現象だが、熱狂的読者の間では、小説の映画化作品をめぐって賛否両論が巻き起こる。それが、村上春樹作品の場合はかなり激しいのかもしれないし、それだけ村上春樹という存在は神格化されているのかもしれない。さて、久しぶりに日本人監督が村上小説を映画化した『ハナレイ・ベイ』(10月19日より公開)は、どんなふうに受け取られるのだろうか。

情緒をいかに実写にするか

原作小説の「ハナレイ・ベイ」は、文庫本で42ページの短編。短編集『東京奇譚集』に収録されており、後に自選短編集『めくらやなぎと眠る女』でも選ばれているので、著者お気に入りの小説なのだろう。

女手一つで育ててきた息子が、サーフィンをするために行ったハワイのカウアイ島にあるハナレイ・ベイで、鮫に右脚を食いちぎられて死んだ。まだ19歳。日本から駆けつけた母親は、毎年息子の命日の少し前から、ハナレイの町に3週間ほど滞在するようになる。それから10年後。彼女はハナレイで、サーフィンをしにやって来た日本人の青年二人と出逢う。束の間の心安らぐ日々を送ったあと、彼女は二人から「片脚の日本人サーファーを見た」と聞かされ、動揺する。

(C)2018 『ハナレイ・ベイ』製作委員会

村上の小説は、日本を舞台にしていても、どこか国籍不明の異国情緒が漂う。それが、実写映画にしたとき生まれる違和感の一つの原因だった。キャスティングがイメージにフィットしているかどうかよりも、情緒の風土が、映画の中の「日本」とうまく折り合いをつけられないことが少なからずあった。

本作はハワイのハナレイという具体的な「外国」の日本人たちを描いている。だから、実際にハナレイでロケされたこの映画にも、風土的な齟齬が生じない。ハワイの日本人、というズレが、村上小説がもともと有している国籍から自由なあり方と無理なく有機的な関係を結んでいるからだ。

物語の骨格は変わらない。短編小説を長編映画に仕立て直す上で、肉付けは施されている。小説にはない設定や、エピソードの追加はある。だが、それらは改変というよりは、生身の人間が演じるために必要な細部であり、むしろ小説の中核にある喪失感を鮮明に浮かび上がらせるために必要な聖なるギミックと言えるだろう。

(C)2018 『ハナレイ・ベイ』製作委員会

フィクションの中のリアル

また、本作のキャストがいずれも、わかりやすい日本的情緒から距離のある演じ手であることも大きい。

主演の吉田羊は、いい意味で年齢不詳だが、同時に透明な年輪を感じさせる女優でもある。人間の苦悩はときに、抽象性を帯びることがあるが、ありきたりの生々しさに傾くことのない吉田羊の演技資質は本作を絶妙なバランスで成立させている。生活感のなさもまた、純化された物語にふさわしい。生ぐさいリアルではなく、フィクションの中にだけ存在するリアルが、ここにはある。

息子を演じるのは佐野玲於。主人公の回想の中にだけ登場する儚さは、無垢なる透明感とも相まって、やがて消え去っていくものへの愛しさを募らせる。佐野の壊れそうな野性のありようは、想い出の中にしか存在しえないこのキャラクターのフォルムに、超然とした佇まいのまま、おさまっている。

(C)2018 『ハナレイ・ベイ』製作委員会

そして、日本人サーファーの一人を演じる村上虹郎。彼のエキゾチックな顔だちが、ここまで必然性を帯びたのは初めてのことではないか。まさに異邦人として主人公の前に現れ、まるで天使が悪戯を仕掛けるように無邪気に振る舞い、立ち去っていく、その一挙手一投足が眩しい。これは映画にしか起こらぬ「実在感」であり「夢」である。相棒のサーファーに扮するのは、プロサーファーの佐藤魁。彼のスロウな語り口が、これまたたまらない。虹郎の「含みのある快活さ」をより引き立てるスパイスたりえている。

キャスト陣から、原作にふさわしい演技を引き出したのは、『トイレのピエタ』(2015年)で野田洋次郎と杉咲花を演技開眼させた松永大司監督。的確かつ妥協なきアプローチは、もはや日本を代表する撮影監督と呼んでいい名手、近藤龍人(『万引き家族』も記憶に新しい)のカメラワークと相まって、じわりと染み入る余韻を約束する。

(C)2018 『ハナレイ・ベイ』製作委員会

思うに、短編であれば、村上春樹の小説は、映画化にチャレンジできるのではないだろうか。小説の風土と、いかに関係を切り結ぶことができるか。そして、キャスティングさえうまくいけば、今後はもっと大胆な映画化作品が生まれても不思議ではないだろう。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)