この夏に公開された『SUNNY 強い気持ち・強い愛』では押しの弱い主人公をおっとりと好演し、意外なキャラクターを見せた篠原涼子。だが、彼女と言えばやはり「アンフェア」シリーズに代表される「唯我独尊」タイプのヒロインが脳裏に浮かぶ。

東野圭吾原作の『人魚の眠る家』(11月16日より公開)は、そんな女優、篠原涼子のイメージを極限まで推し進め、想定外の方向に舵を切った凄まじい一作。周囲にいる者すべてを翻弄し、どこまでも己が信じる道を突っ走る母親像を、彼女にしか成し得ない破格の説得力で体現している。

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

「ありえない」を「ありえる」に変える

娘がプールで溺れ、意識不明のまま昏睡状態に陥った。一命はとりとめたものの、回復の見込みはなく、眠り続けるしかない。悲観に暮れる母親・薫子(篠原涼子)に、夫である和昌(西島秀俊)はある提案をする。和昌は、自身が社長を務める会社の若手社員の研究に目をつけたのだ。

その研究は、脊髄に直接信号を送り、手足を動かすというものだった。娘を研究材料にしながらも、我が子の命が具体的に「動き」となって可視化されることに無上の喜びをおぼえる薫子。薫子と和昌は離婚目前だったが、この危機に直面したことで、再び絆を取り戻そうとしていた……。

感動ストーリーになるかと思いきや、むしろ最悪の方向に事態は急転していく。その原動力となるのは、薫子の途方もない「思い込み」である。

若手社員は恋人もほったらかしで、この母娘と一緒に過ごす時間を生活のメインに据えるようになる。

事態の異常さに気づいた和昌だが、「壊れゆく」妻を前に、為す術もない。事故の原因を作ったと自責の念に駆られる祖母も、黙って見守る以外にない。気がつけば薫子は、すべてを自分中心に動かす驚異のモンスターと化していた。愛という名の狂気をエネルギーとする、とてつもない怪物である。

もはや誰も止めることのできない薫子の暴走。本来なら、デフォルメが行き過ぎて「ありえない」はずの存在を、篠原涼子は「ありえる」に変える。問答無用の鮮やかさで。

(C)2018「人魚の眠る家」 製作委員会

「母」のイメージを獰猛に進化させる

たしかに悲劇ではある。だが、悲劇の底辺に横たわる凄み、もっと言ってしまえば、どうにもならない「えぐみ」を、この物語は抽出する。

「薫子は可哀想。あそこまでのめり込むのもわからないでもない」と、当初は思わせられるが、特濃の「えぐみ」が積み重なることによって、そんな悠長なことは言っていられなくなる。考えもしなかった危機的状況が押し寄せてくるからだ。

気づいたときはもう遅い。主人公は「同情すべき女性」などではなく、手を出すことがはばかれる「爆弾」と化している。つまり、一触即発である。

篠原涼子の演技アプローチには、被害者めいたところが一切ない。この主人公は最初から「か弱さ」など漂わせておらず、ブレのない意志だけが屹立している。そう、ブレない意志が、ある「思い込み」をバネに疾走しているだけなのだ。

篠原はそんな単純さで、母の内部に蠢き、拡散する際限のない喜怒哀楽を溶け合わせ、ある種、無秩序に放射していく。感情のエキスそのものだけが、だらだらとこぼれ落ちるその様は圧巻だ。

わたしたちがこれまで、「母」なるイメージの凡庸さにいかに飼いならされてきたのかを思い知らされる。「母」にはこんな側面もあるのだ。愛にはこんなダークサイドもあるのだ。篠原はそれを突きつけてくる。

今回に限ったことではないが、篠原涼子という女優には、同情を寄せつけない潔癖さがある。どんな悲劇や不幸をまとっていても「護られる」存在ではなく、自発的に、能動的に、決断し、行動する「実戦型」としての潔さがある。

『人魚の眠る家』の薫子は、「母」には欲望があり、その欲望はとてつもない領域にまで到達することもあるのだと教えてくれる。

ある意味、爽快なまでにシンプルに、人間の「知られざる一面」を見せつける女優、篠原涼子。そのことこそが真の魔性であり、本作はその最強のかたちと言ってよいと考えられる。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)