今年28歳になった俳優・池松壮亮。筆者は、かつて彼のことを「名人」と形容したことがある。池松は紛れもなく現代日本映画を代表する俳優のひとりだ。『ラストサムライ』(2003年)から15年の歩みは、主演、助演というカテゴライズを無効にする吸引力で、映画を映画として活性化してきた。

極論を言えば、池松壮亮がそこにいれば、映画は「映画に成る」のである。どのようなキャラクターであろうと、どのようなポジションであろうと、それは変わらない。そのポテンシャルは、既に上限に達しているかに思えた。だから「名人」の一語がふさわしいと考えた。

だが、最新主演作『斬、』(11月24日より公開)で彼は、驚くべき新次元にキャリアを移行していた。

(C)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

池松が演じた浪人の「おののき」

『斬、』は、塚本晋也監督が池松を念頭に置いてオリジナル脚本を書き下ろした時代劇である。つまり、塚本監督が池松という俳優の存在感からイメージし、インスパイアされたものが根底にある。そして、そこにはとてつもなくハード、いや、ハードコアな主題が埋め込まれている。

舞台は江戸末期。農村で手伝いをしながら暮らす浪人がいる。剣の腕は立つが、いまはそれを生かす場がない。日本は開国に向かっている。武士という存在がそろそろ時代遅れのものとなり、やがて不要とされる未来がぼんやり、真綿で首を締めるように迫っている。

浪人は、あるいきさつから、ひとりの剣豪と出逢う。剣豪は、浪人の能力を見込んで、京都の動乱に参戦するよう誘う。自身の存在が肯定され、証明される、またとない機会におののく浪人。ところが千載一遇のチャンスだったこの契機は、思いもかけない悲劇によって悪夢へと墜落していく。そこで何が起きるのか。そして監督が結末にどんなテーマを託したか。それはぜひ劇場で目の当たりにしていただきたい。

ここで記しておきたいのは、池松壮亮がいかなる表現を繰り広げているかということである。池松は「おののき」、つまり震えを、あらゆる角度から吟味し、体現している。

(C)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

「おののき=震え」が膨張すること

浪人とはいえ、まだ青年の面持ちを残している主人公は、まずポジティヴな震えを序盤で見せる。武者震いと言ってもよいかもしれない。「おののき」という言葉を暗さの側面から捉えるひとも多いかもしれないが、涙にも種類があって、うれし泣きという現象があるように、前向きな状態からこぼれおちる「おののき」も間違いなく存在する。

それは、青年ならではの自尊心がもたらすポジティヴィティである。ついに俺は認められた。俺が、俺だけの実力を発揮するときが、ようやく訪れた。そうした幸運に恵まれた際に噴出する歓びを、池松は主人公の性格に則して、あくまでも抑えた人間性の内部で、本人も無意識のまま「膨張」しているかのように、かたちにしている。

無意識だから、その歓びがいかに膨らんでいるかを把握はできていないし、もちろんコントロールもできていない。だが、表面上は、みだりにうれしそうにしているわけではないから、この深層は実は根が深い。

さすが名人。綿密さをとことんまで突き詰めると、ここまで澄みきった自然さに到達するのか。当初はそのように納得していた。だが、これは単なる布石だったのである。

(C)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

初めて見せる、決壊寸前の芝居

後半、この「おののき」は、膨張から暴発へと至る。そう、「おののき」は暴発するために膨張していたのだ。

そもそも「おののき」は、どのように膨張していたのか。期待の中に不安の種があり、この種がスパイスとなって期待をさらに高めていた。池松は、期待と不安との、きわめてスリリングな共存関係を完璧にコントロールしていたのだ。

ところが、ある惨事が起きて、「おののき」は変貌する。期待の内部に棲んでいた不安は、胃袋を食い破るように外に飛び出した。外気に触れた不安は、もはや不安ではなくなっている。絶望と疑念が押し問答する、一種、最悪の状態へと展開していく。

ここが、池松壮亮が新次元に足を踏み入れた瞬間である。前半ではあれだけ「おののき」をコントロールしていたはずの彼は、後半で一気に「手ぶら」となる。依って立つものが何もない状態でタイトロープしている。いつ落下してもおかしくない態勢で、ぐらぐらと揺れている。

不安定な精神を演じているのではない。演技そのものが揺らいでいる。バランスを欠いている。もっと言えば、表現が決壊スレスレのところまで迫っている。あと一歩で、崩れ落ちてしまうだろう。こんな状態の池松壮亮は見たことがない。

前半では、主人公の震えをきっちり積み上げていただけに、後半の落差が凄まじい。もちろん、それを見越しての「手放し運転」だろうが、この一か八かのダイヴには、問答無用のサプライズがみなぎっていた。

いま、池松壮亮は名人の地点を飛び越え、果てのない役者道を、真新しい気持ちで進んでいるように思える。それは初心に還ったとか原点回帰とか、そんな生ぬるいアプローチではない。池松は、池松にしか歩むことのできない修羅のけもの道を、たったひとりで歩み始めたのだ。

(文/相田冬二@アドバンスワークス)