文=大谷隆之/Avanti Press

一作の映画、または一人の監督を核に、過去未来、ジャンルを超えて(思いがけない)映画の系譜を紹介する「#シネマ相関図」シリーズ! 三回目は『万引き家族』でカンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞し、第91回アカデミー賞・外国語映画賞にもノミネートされた是枝裕和監督をピックアップ。

カンヌ国際映画祭に参加する是枝裕和監督 (c)picture alliance / Photoshot

対象を「見つめる」監督、是枝裕和

「モニターはね、信用できないんですよ」

10年前、映画『歩いても 歩いても』ではじめて是枝裕和監督に取材したときのこと。なにげない会話の流れで聞いた、この言葉をよく覚えている。

本番中、是枝監督はほとんどモニターを見ない。たいていカメラのすぐ横にいて、役者たちの芝居をじっと見つめている。前もって撮影現場を見学させてもらった際、その姿がとても印象に残った。最近ではめずらしい撮り方だな、と。

モニターという「フレーム」を通じて空間を切り取れば、人の動きと画面の構図を同時に確認できる。仕上がりもイメージしやすい。実際、デジタル化が進んだ最近では、大多数の作り手が本番ではモニター前に座って、OKテイクを出している。「なぜ監督はそうしないのですか?」と素朴な質問をしたところ、返ってきたのが冒頭の発言だった。

まず一つには、単純に画面が小さい。卓上サイズのモニターで演技をジャッジしても、映画館のスクリーンになると見え方が変わってしまう。「それよりはカメラの横にいて、役者たちの息づかいを間近で感じていた方が、完成形を想像しやすいんです」と、監督は理由を教えてくれた。そして、「ぼくはずっとテレビのドキュメンタリーを作ってきたので、カメラは対象を見せる道具じゃなく、むしろ見つめるための道具なんです」と言葉を続けた。

『海街daily』でカンヌ国際映画祭に参加したときの是枝監督、長澤まさみ、広瀬すず、綾瀬はるか、夏帆
(c)FREDERIC DUGIT/PHOTOPQR/LE PARISIEN

「ある仮説なりテーマに沿って誰かと向き合っていても、『この人、こんなことも言うんだ』とか、『人ってこんなときにも笑うのか』と驚く瞬間がある。そういう相手との関係のなかで、作り手自身も変化していくのがドキュメンタリーの豊かさですが、ぼくにとっては劇映画も一緒なんですね。だから目の前にいる役者さんの表情や言葉をどこから見つめ、聞くかを考えてカメラポジションを決めているし、それを共有できるカメラマンと仕事をしています」(当時の取材より採録)

被写体を自分のイメージに近付けて「見せる」のではなく、虚心に「見つめる」。そして、そこで出会った予想外の反応や、新たな発見、驚き、感動を作品のなかに繰り込んでいく。昨今の日本映画においてメインストリームとは言いがたいこのスタンスは、カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)に輝き、第91回アカデミー賞・外国語映画賞にもノミネートされた『万引き家族』まで見事に一貫している。たとえば終盤で、安藤サクラ演じるヒロインの取り調べシーンなどは、その最良の成果ではないだろうか。この場面の撮影にあたり、監督は彼女に基本設定だけを伝え、共演者の問いかけに対する生のリアクションを撮影した。

おそらく是枝監督にとって演出とは、細かい演技指導などではなく、カメラを回していない時間も含め「見つめる」ための準備を積み重ね、環境を作っていく地道な作業なのだと思う。前置きが長くなったが、まずはこの観点から是枝裕和監督の「シネマ相関図」をたどってみよう。

是枝監督に示唆を与えた2人のドキュメンタリー作家

是枝監督は1987年、24歳のときに番組制作会社「テレビマンユニオン」に参加。ディレクターとしてのキャリアをスタートさせた。本人の回想によれば新人時代は「ナイーブすぎ」て「青臭い自己愛」ばかり目立つ若者で、せっかく任された海外ロケ番組がボツになって、ショックで出社拒否にもなったという。青春期の挫折と試行錯誤については、近著「映画を撮りながら考えたこと」(ミシマ社)に詳しい。

だが見方を変えると、ドキュメンタリーにおける「演出」のあり方──取材対象の見つめ方について、監督は当初から自覚的だったとも言える。1991年、水俣病を担当していたある高級官僚の自殺を追った「しかし… 〜福祉切り捨ての時代に」と、1頭の仔牛と生徒たちの3年間を見つめた「もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録」がフジテレビ深夜枠で放送された。この制作過程を通じてテレビの面白さに目覚めた是枝監督は、以降は意欲的なドキュメンタリー作品を次々と世に問うて、少しずつ注目を集めていく。

この時期の彼に大きな示唆を与えたのが、小川紳介(1935〜1992年)と土本典昭(1928〜2008年)という2人のドキュメンタリー作家だ。

新東京国際空港建設に反対する農民運動を記録した「三里塚シリーズ」(1968〜1977年)を手掛け、山形国際ドキュメンタリー映画祭の発起人でもある小川監督は、是枝監督の表現を借りるなら「すごく対象と仲良くなる人」。ときに取材者/被取材者の一線も踏み越え、それでしか引き出せないなにかをフィルムに収める。

一方『水俣 ─患者さんとその世界─』(1971年)から17作にわたり水俣病問題を撮り続けた土本監督は「自分はその問題とか被害者の家族に関して、イコールにはならない」人。ただしその「寄り添い方が半端ではない」だという。

是枝監督はかつて島森路子氏(雑誌「広告批評」編集長)の取材で、2人について「すごく尊敬していて、あの人ならこういうときどうするんだろうという僕なりの基準にしている人」と表現した。また1995年には「ドキュメンタリーの定義」というテレビ作品で、小川監督の盟友として知られるカメラマンたむらまさき氏に、後輩としてインタビューも試みている。

対象との関係性を徹底して考えた2人の姿勢は、おそらく細かいテクニックの次元を超えて、是枝監督の映画の作り方に影響を及ぼしている。たとえば子役の演出。撮影前のカメラの回っていない時間を大切にし、そこで知った子どもたちの性格や持ち味を物語に取り込んでいく是枝映画の手法が、その具体例として思い浮かぶ。

また現実との関わり方という意味では、映画だけでなくドキュメンタリー分野でもラディカルな社会批評を展開した大島渚監督(1932〜2013年)の名前を、ここに加えてもよいかもしれない。

劇映画に踏み出すきっかけとなった台湾の巨匠

では、劇映画の「シネマ相関図」についてはどうだろう。是枝監督の長編デビュー作『幻の光』が公開されたのは1995年。ドキュメンタリーの分野から映画制作に踏み出すきっかけになったのは、台湾ニューシネマの旗手・侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の存在だった。

1993年、是枝監督はフジテレビの深夜枠で「侯孝賢とエドワード・ヤン」という番組を制作。自筆の略年譜には「取材を通して侯孝賢監督と出会い、どうしても映画を撮りたいと思うようになる」との記述がある。年齢的にはちょうど20代後半から30代に差し掛かる頃。やはり本人の表現を借りると「テレビをやりながら映画をやりたくて、すごく嫉妬しながら憧れを持って」、侯孝賢監督の『童年往事 時の流れ』(1985年)や『恋恋風塵』(1987年)、エドワード・ヤン監督の『クー嶺街少年殺人事件』(1991年)などを眺めていたそうだ。

侯孝賢監督との繋がりは、精神面だけでなく、現実的にも大きな後押しとなった。たとえば『幻の光』の音楽は、『恋恋風塵』や『戯夢人生』(1993年)など侯孝賢作品で知られる台湾の音楽家、陳明章(チェン・ミンジャン)が手掛けている。これは『恋恋風塵』に惚れ込んだ是枝監督が、侯監督に紹介してもらって実現した組み合わせだ。その際、企画内容を聞いた侯監督は、クランクイン前にもかかわらず「そういう物語ならヴェネチア映画祭に持っていくといい」とアドバイスしたという。また後年、是枝監督は2009年の『空気人形』でも、侯監督の盟友であるカメラマンの李屏賓(リー・ピンビン)を起用している。彼もまた『恋恋風塵』の叙情的なカメラワークで世界を驚かせた名匠であり、是枝監督のこの台湾映画への思い入れをうかがわせて興味深い。

侯監督の助言もあってヴェネチア国際映画祭に出品された『幻の光』は、その年の監督賞を受賞する。光と影のコントラストを強調した撮影監督・中堀正夫の映像は海外の批評家にも強い印象を与え、是枝監督も敬愛するイタリアの名匠ミケランジェロ・アントニオーニ監督を引き合いに出して「アントニオーニよりもアントニオーニ的」と評した現地メディアもあった。

だが、世界的にも高評価を得た本作を、監督自身は「非常に反省の多い作品」だと振り返っている。初監督の気負いもあり、現場に入る前に「がちがちに決め込んで描いた三〇〇枚の絵コンテに自分自身がしばられていた」からだ。完成した作品を見て、是枝監督に「テクニックは素晴らしい。ただ君は撮影する前に全部コンテを描いただろう」と最初に指摘したのは、ほかならぬ侯孝賢監督だったという。

コンテからの解放、さらなるドキュメンタリー要素

2作目の『ワンダフルライフ』(1999年)以降、デビュー作での苦い経験をふまえた是枝監督は、カメラを「目の前で起きていることを見つめる道具」と位置付けた演出を模索しはじめる。このシフトチェンジにあたり大きな役割を果たしたのが、ドキュメンタリー出身のカメラマンの山崎裕だ。

『ワンダフルライフ』の舞台は、この世とあの世の境界にある場所。死んだ人間はそこで大切な思い出を一つだけ選び、“職員”の手を借りて映画のワンシーンとして再現したうえで、天国へ旅立つ。

このファンタジーの脚本リサーチのため、監督は学生アルバイトを雇って、街頭で600人に「あなたの人生を振り返って大切な思い出を一つだけ選んでください」とたずねるインタビューを行った。当初はそこで語られた記憶をプロの俳優が演じる予定だったが、学生が撮ってきたビデオ映像がとても面白かったため、急きょ本人たちに出演依頼するプランに変えたという。

ちなみに、本作の「監督助手」として、一連のリサーチ作業から撮影、編集、仕上げまでを経験したのが、当時大学生だった西川美和だ。彼女は4年後、是枝監督プロデュースのもと『蛇イチゴ』(2003年)で監督デビューを果たした。

前作から一転して、絵コンテは一切なし。監督はおもに、一般の人たちが思い出を語りやすい状況づくりを担当し、それをカメラマンが自由に撮っていく手法で『ワンダフルライフ』は完成した。以降、山崎は3作目『DISTANCE』(2001年)、4作目『誰も知らない』(2004年)、5作目『花よりもなほ』(2006年)、6作目『歩いても 歩いても』(2008年)、7作目『大丈夫であるように Cocco 終らない旅』(2008年)、9作目『奇跡』(2011年)、テレビドラマ「ゴーイング マイ ホーム」(2012年、全10話)、12作目『海よりもまだ深く』(2016年)と、是枝監督の長編13作品のうち、実に8本で撮影監督をつとめている。

このうち、役者間の即興のやりとりを大胆に採り入れた『DISTANCE』や、子どもたちの素の表情をいきいき捉えた『誰も知らない』と『奇跡』は、単なるスタイルではなく本質的な意味でドキュメンタリー的な要素が強い。

『歩いても 歩いても』「ゴーイング マイ ホーム」『海よりもまだ深く』の3作品は純然たる家庭劇だが、どれも阿部寛が監督の分身(とおぼしき)主人公の「良多」を演じているところがポイントだろう。ここでも対象にあわせて自在に動く山崎のカメラワークは、おそらく監督自身が抱えた弱さやダメな部分も含めて、等身大の登場人物を見つめる目の役割を果たしている。また山崎は2016年には、西川美和監督の『永い言い訳』の撮影も担当した。

表現の方向と新しいカメラマンとの仕事

ほかの作品についてはどうだろう。

第8作『空気人形』(2009年)の撮影は、前述した台湾のリー・ピンビンだ。移動撮影を駆使し、登場人物の心情に寄り添うエモーショナルなカメラワークは、是枝作品のなかでも異彩を放っている。本作では韓国の天才女優ペ・ドゥナがいわゆるラブドールを演じるが、監督は企画段階で「これをリアルに撮ると従軍慰安婦を思わせる」と考えた。そこでドキュメンタリーとは逆に「徹底してファンタジックなつくり物」にするために、叙情性あふれるリー・ピンビンに撮影を依頼したという。ちなみにオファーを受けるかどうか悩んだペ・ドゥナを決意させたのは、相談したポン・ジュノ監督の「おもしろくなるんじゃないか。やったほうがいいよ」というひとことだった。

第10作『そして父になる』(2013年)、第11作『海街diary』(2015年)、第12作『三度目の殺人』(2017年)は、広告からグラフィックワークまで幅広い分野で活躍するフォトグラファーの瀧本幹也。物語の魅力に加え、この3作はすべてある種の「スター映画」であることが共通点だ。人物の際立たせ方に長けた瀧本の起用には、福山雅治、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずという男優・女優の魅力をきっちり引き出し、スクリーンに定着させるという、是枝監督なりの戦略もうかがえる。

『万引き家族』上映中
(c)2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro.

最新作『万引き家族』(2018年)では山下敦弘監督や熊切和嘉監督、吉田大八監督などの仕事で知られる売れっ子、近藤龍人と初タッグを組んだ。受賞後のインタビューによれば、本作では気心の知れた(互いに手のうちを知り尽くした)撮影監督ではなく、若い世代のカメラマンと「新鮮なカタチで昭和の日本家屋を撮りた」かったことが起用の決め手になったとのことだ。

2度のパルムドール受賞、英巨匠ケン・ローチと
共有させた視線とは

是枝作品の魅力としてよく言及されるのが、子役たちの自然な表情だ。

テレビの仕事をしながら映画への憧れを募らせていた20代後半の頃、監督は相次いで公開されたビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(1973)や『エル・スール』(1982)、アッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』(1987年)などに刺激を受けた(ただし、素人の子どもに現場でプレッシャーをかけて不安げな表情を引き出すキアロスタミの演出法については、後に「キアロスタミはそれがやれる監督」「でも僕はやらないと決めました」と語っている)。

なかでも影響を受けたのが、英国の名匠ケン・ローチ監督の『ケス』(1969年)という作品だ。主人公はヨークシャーのさびれた炭鉱町に住む、落ちこぼれの少年ビリー。家でも学校でもうまくいかない主人公は、ある日ハヤブサのひなを拾い、ケスと名付けて心を通わせていく。

この映画を見た是枝監督は、とても芝居とは思えない主人公の表情に感動。4作目『誰も知らない』の撮影に入る前、たまたまプロモーションで来日していたケン・ローチ監督に人を介して会わせてもらい、子役の演出について質問したそうだ。『誰も知らない』では当時14歳だった柳楽優弥が、カンヌ国際映画祭において史上最年少で最優秀主演男優賞を受賞する。この際に用いられた「Nobody Knows」という英語タイトルは、実は是枝と話したときに、ケン・ローチ監督が示唆したものだ。

是枝監督は同時代の尊敬する作り手として『罪の手ざわり』(2013年)のジャ・ジャンクー監督(中国)、『シークレット・サンシャイン』(2007年)のイ・チャンドン監督(韓国)、『スウィート ヒアアフター』(1997年)のアトム・エゴヤン監督(カナダ)、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)のポール・トーマス・アンダーソン監督(アメリカ)などを挙げているが、なかでも「現役の作家のなかでは一番好き」というケン・ローチ監督への共感は深い。

2016年、ケン・ローチ監督は『わたしは、ダニエル・ブレイク』で2度目のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した。そこにはイギリスの福祉切り捨て政策に翻弄される庶民の、「私だってこの社会で生きているんだ!」という魂の叫びが描かれている。

映画ファンのなかには、2年後に同じ賞を獲得することになる『万引き家族』と共通点を見出す人も多いだろう。だがここでは、「奇しくも」という常套句はふさわしくない。むしろ、目の前にいる人や社会に対して日英のすぐれた作家2人が同じ視線を共有していた相関性にこそ、注目すべきではないだろうか。

テレビ訛りのあるブロークンな映画言語

最後に少しだけ、日本の先人たちとのつながりについて触れておこう。前述の著書「映画を撮りながら考えたこと」の冒頭に、次のような一節がある。

「僕が語っている映画言語は、間違いなく映画を母国語とするネイティブなつくり手のそれとは違って、テレビ訛りのある『ブロークン』な言葉である」

ここからもわかるように、是枝監督には、自分が映画マニアやシネフィルだという意識はない。たしかに映画好きだった母親の影響でテレビの洋画劇場に親しみ、学生時代には名画座に通って黒澤明監督の『生きる』(1952年)やフェデリコ・フェリーニ監督の『道』(1954年)にも衝撃を受けた。

だが、原体験として繰り返し語られるのは、少年時代に無意識に見ていたテレビのホームドラマだ。著書やインタビューをひもとくと、鮮烈な記憶を残した作品として倉本聰がTBS「東芝日曜劇場」枠に執筆した小林桂樹・八千草薫主演の単発ドラマ「ばんえい」(1973年)、山田太一脚本の連続ドラマ「想い出づくり。」(1981年)や「早春スケッチブック」(1983年)などが挙げられている。

とりわけ直接的影響を感じさせるのは、家庭劇の名手として今なお人気の高い向田邦子だろう。『歩いても 歩いても』『海よりもまだ深く』などがよい例だが、是枝監督のホームドラマでは、家族がどうでもいい話をえんえん続けるシーンが多い。だが、そういった日常の(テーマ性を帯びていない)会話にさりげない毒や皮肉が紛れ込むことで、各自が抱え込んだ問題や家族内のわだかまりが次第に浮かんでくる。

このように家族を「かけがえがないけれど厄介」な存在としてとらえる筆致はおそらく、是枝監督は子どもの頃に「時間ですよ」(1970〜1990年)や「寺内貫太郎一家」(1974〜2000年)など向田邦子が脚本に参加していた一連のホームドラマに親しむことで、無意識に血肉化したものだ。

日本映画の伝統とのつながり

日本映画黄金期の巨匠についてはどうだろうか。

『歩いても 歩いても』のクランクイン前、是枝監督は成瀬巳喜男監督の作品をまとめて見返し、日本家屋の効果的な撮り方を研究した。「ロケーションで撮った街の風景」「家の外観」「スタジオ内に建てた室内セット」という3要素を組み合わせて、ある家族の住空間と人間関係をどう伝えるか。その方法論においては、たとえば成瀬監督の『めし』(1951年)などが非常に参考になったそうだ。

また是枝監督はかつてある国際シンポジウムで、自分はデビュー作『幻の光』で、つい小津安二郎を真似して失敗したと率直に語ったことがある。日本家屋の縁側で父親と義理の娘が語り合うシーンを、標準レンズを用いた小津的構図で撮ったものの、完成した作品は似ても似つかなかった。小津の映画では本来、そういった静的なショットの積み重ねこそが登場人物の感情を伝える動的役割を果たしているのに、自分の作品はただ静謐なだけで、観客に強く訴えかけるものがなかった、と。この反省を踏まえ、是枝監督が「相手の表情をどこから見つめたいかでカメラポジションを決める」という独自の演出論にたどりついたことは、前述の通りだ。

だからこそ、その20年後に『海街diary』を撮るにあたって、是枝監督がまっさきに連想したのが小津監督の『麦秋』(1951年)だったというエピソードは、興味深い。舞台が鎌倉だという類似点はもちろんだが、「実は家族の描写を通して、もっと広いもの──街だったり時間だったり──を描いている。その目線の広さというか時間感覚」が、『海街diary』で描きたかったものと相似している気がしたと、是枝監督は著書で振り返っている。

そこにあるのは、単なる日本的スタイルの模倣ではない。まさに「もっと大きな時間感覚」という意味において、是枝監督は20年をかけて、日本映画の伝統とのつながりを再発見したと言うべきなのかもしれない。