文=樋口尚文(映画評論家、映画監督)

原節子

実にゼロ年代に入ってからの鎌倉での出来事であるが、私の近くで往年の撮影所のスター女優だった方が携帯電話でどなたかと話していて、後でその相手が原節子であることを知った時には慄然とした。ああ、原節子はこの時代にも健在なのか。それだけでも不思議なのに、原節子が携帯電話をかけているなんて、もう信じられない。1963年の暮れ、小津安二郎の逝去とともにまだ四十二歳で女優を引退し、世間から一切姿を消してしまったので、われわれの中での原節子の記憶はその時で止まってしまっている。

原節子のことを貞淑で慎ましい日本女性のイメージで語る向きもあるが、原節子はあらかじめ貞淑であろうとしたのではなく、それをまとわされた存在であった。実際、戦前の映画界に見出されたティーンの頃の原節子は、彫りの深い目鼻立ちもくっきりした溌剌とした美少女であった。天才・山中貞雄監督の洒脱な『河内山宗俊』(36)ではポップなアイドルのようであり、大型の話題となった合作映画『新しき土』(37)ではドイツ映画のヒロインのようであった。戦時下の『ハワイ・マレー沖海戦』(42)、『望楼の決死隊』(43)などの国策映画でも、大衆は貧しく苦しい時代に(戦意高揚の建前はともかく)原節子のバタ臭いしゃれた表情にこそ救われていたことだろう。

戦後はこの天性の屈託のなさが、進歩的な女性像として持て囃され、黒澤明監督の『わが青春に悔なし』(46)、『白痴』(51)、吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(47)における意志的で強烈な女性像や今井正監督『青い山脈』(49)のりりしく知的な女教師などの当たり役に結実している。だが、こんな原節子の明晰さや屈託のなさ、ゴージャスさをもって、より印象的な役柄に応用してみせたのは、1949年の小津安二郎監督『晩春』だろう。すなわちこの作品の前半、笠智衆扮する大学教授の父との穏やかな日常のなかで満ち足りた娘役の原の表情はとてつもなく明るく弾けて魅力あふれるものだ。が、後半はそんな父の縁談を知らされて、一転落胆と諦めの表情からついに解放されることがない。そもそもの途方もなく明るい笑顔ゆえに、この落差はひじょうに激しい。

これは日本人ばなれした美貌と明朗さを身上とする原節子だからこそ面白さが引き立つのだった。小津『晩春』(49)を皮切りに『麦秋』(51)の原は婚期を逃したOL、『東京物語』(53)、『秋日和』(60)や成瀬巳喜男『娘・妻・母』(60)ではしみじみとした未亡人、小津『東京暮色』(57)や成瀬『めし』(51)、『山の音』(54)、『驟雨』(56)では不幸な結婚生活に縛られた人妻……といったやや薄幸な役どころが板につくようになった。戦後民主主義の活気そのままのごとき笑顔のイコンに、こうして日本的な「耐え忍ぶ」貞淑さをまとわせると、どこか虚構的で泥臭さがなく、映画が華を失うこともなかった。このあくどくないほどよさが、絶妙に小津好み、または成瀬好みでなかったかと推察する。

しかし、こうして作品で愛をあきらめさせられ続けた原節子が、小津の死によって現実でも深い思慕をあきらめさせられたのは、なんたる符合であろうか。『東京物語』で原節子と共演した香川京子さんに「原さんはどんな方だったのですか」と尋ねると、すぐに「とにかく気さくで、とてもとてもお優しい方でした」という答えが返ってきた。

原節子(本名・会田昌江)。1920(大正9)年6月17日、神奈川県横浜市保土ケ谷区月見台に生まれる。1934(昭和9)年、家庭の事情で横浜高等女学校(横浜学園高等学校)を中退。翌年、日活の監督であった義兄・熊谷久虎の勧めで、日活多摩川撮影所に入所。『ためらふ勿れ若人よ』(35)で映画デビュー。この映画の役名・節子を芸名とした。37年に東宝に移籍。47年3月に新東宝に移るも、6月にはフリーとなる。主な出演作に山中貞雄監督『河内山宗俊』(36)アーノルド・ファンク監督『新しき土』(37)、黒澤明監督『わが青春に悔いなし』(46)、吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(47)、木下惠介監督『お嬢さん乾杯』、今井正監督『青い山脈・前後篇』、小津安二郎監督『晩春』(49)、春原政久監督『七色の花』(50)、黒澤監督『白痴』、小津監督『麦秋』、成瀬巳喜男監督『めし』(51)、小津監督『東京物語』(53)成瀬監督『山の音』(54)、成瀬監督『驟雨』(56)、小津監督『東京暮色』(57)、川島雄三監督『女であること』、山本嘉次郎監督『東京の休日』(58)、小津監督『秋日和』(60)、小津監督『小早川家の秋』(61)ほか。62年に出演した稲垣浩監督『忠臣蔵・花の巻、雪の巻』(62)を以てスクリーンを去った。以来、53年間、表舞台に立つことはなかった。2015年9月5日逝去。享年95。