文=ロサンゼルス在住ライター 町田雪

Steven Avery
無罪が証明され釈放されたスティーヴン・エイヴェリー(2005年2月撮影)
©Carl Wagner/TNS/ZUMAPRESS.com

「彼は本当にやったのか?」。昨年12月にオンライン・ストリーミングサービス、Netflixでオリジナル・ドキュメンタリー・シリーズ「殺人者への道/Making a Murderer」が配信開始となって以来、米ソーシャルメディアで合言葉のように繰り返されているフレーズだ。大手メディアや有名人たちが各々の持論を述べ、ホワイトハウスまでもが声明を出す事態となっている。

「殺人者への道」の舞台は米ウィスコンシン州。人口8万人の小さなコミュニティで、スティーヴン・エイヴェリーという男性が残酷な婦女暴行罪で逮捕される。証拠不十分ながら、彼自身の前科、一家の評判などから、犯人であると確実視されたエイヴェリーは収監されるものの、科学の進歩によりDNA分析が可能となった18年後に無実が判明して釈放される。この冤罪を引き起こした司法制度とそれに関わった警察、検察、判事らが批判の的となり、エイヴェリー自身も冤罪撲滅と名誉回復のために彼ら権威を相手に訴訟を起こす。ところが、その民事裁判の最中、同コミュニティである女性の惨殺事件が発生。第一容疑者となったエイヴェリーは再び有罪判決を受け、仮釈放なしの終身刑となる。さらには16歳の甥も共犯者として有罪に。2人は今も無実を訴えている――。

未解決事件や冤罪が疑われる事件を扱う、こうした“捜査ファイル”的な番組は、米国に数多く存在する。が、10エピソードもの時間をかけて、ひとつの事件を追うシリーズは稀だ。女性フィルムメイカー・コンビであるローラ・リッチアーディ監督とモイラ・デモス監督が、2005年の新聞記事をきっかけに制作を決めた同シリーズ。10年の歳月をかけて形にしただけあり、公判の様子、容疑者や目撃者への尋問テープ、DNA鑑定の裏側、弁護士の作戦会議など、細かい素材が映し出される。判事の顔色、FBI担当者の口ごもり、検察の開き直り、弁護士の不敵な笑顔、陪審員候補の苦悩などが生々しく映し出されるたびに、胸が騒ぎ、疑念が脳をうずめ……正直、見ていてとても苦しいシリーズでもある。

それでも10話続けて見てしまう人が続出するのは、生身の人間の現在進行形の話であり、自分に起きてもおかしくないリアリティを感じるからだろう。シリーズの最後にエイヴェリー側の弁護士が語る言葉が印象的だ。「私たちのほとんどは、実際に犯罪を犯すことがないだろう。それでも、もし犯罪者の疑惑がかけられたとしたら、今の司法制度のなかでは“幸運を祈る”としか言いようがない」。実際に1人の女性の尊い命が失われ、2人の人生が檻のなかにある事件に、サスペンスやスリラーといった言葉を使うのは不適切だが、「フィクションだから」と片付けられない同ドキュメンタリーの恐ろしさは並大抵のものではない。

同シリーズの配信開始後には、ホワイトハウスにエイヴェリーとその甥の完全赦免を求める嘆願署名が集まり、冤罪を主張する人々が続出。ホワイトハウスは、「大統領が州犯罪を赦免することはできない。同時に、我が国の司法制度の公平性を回復するために全力を尽くしている」とコメントした。こうしたなか、俳優マーク・ウォルバーグの兄で歌手・プロデューサーのドニー・ウォルバーグは、シカゴのメディア「SPLASH」に同作についての持論を寄稿。同シリーズを一気見し、あらゆる記事や議論を熟読したと前置きしたうえで、同事件が起こした現象をO.J.シンプソン事件の現象と比較し、様々な考察を基に「エイヴェリーは有罪だろう」と結んでいる。大手メディアが出すもののなかには、同ドキュメンタリーにはエイヴェリーに不利な事実や証拠が描かれていないとして、検察側による意図的な証拠捏造に関する描写の信憑性を疑うものも。一方で、大統領選の渦中にあるヒラリー・クリントンは、同シリーズを見たことがないとしながらも、「私たちの刑事司法制度には組織的な問題がある。同じことをした場合、白人男性よりもアフリカ系アメリカ人男性のほうが逮捕される確率が高いことは事実」と、異なる視点から司法制度の不平等を認めている。

「有罪か? 無罪か?」「司法制度は堕落しているのか?」「ドキュメンタリーの在り方とは?」「世論やソーシャルメディアの威力とは?」と様々な視点から、議論を生み出している「殺人者への道」。ここから何を感じ取るかは人それぞれだろう。個人的には、本編を見る前にメディア報道や世論から感じた印象が、同シリーズをすべて見た後に大分変わったことに衝撃を受けた。それでも自分の感覚はまだ信じられない。同事件を別の角度から描くドキュメンタリーを見たら、また違う考えが生まれるかもしれない。真実に近づくには、間接的な情報だけでなく、当事者に会うことが必要かもしれない。しかし、会ったとしても真実が読めるかは……。

同事件も含め、世界中で起きているすべてのことを当事者として直視することは不可能だが、世論が錯綜する世の中で、情報を選りすぐりながら、自分なりの解釈を探す大切さ、真実にできるだけ近づこうとする作業の苦しさを、再確認させられる。そんなシリーズである。